2018年3月4日日曜日

【時習26回3-7の会 0694】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之四 春〔第4回〕』」「02月24日:『岩津天満宮』→『岩津城跡』→『松平東照宮』→『高月院』→『大給城跡』→『足助城跡』→『豊田市足助資料館』を巡って」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0694】号をお届けします。
 今日最初の話題は、先日から再開した『猿蓑』〔巻之四〕『春』の〔第4回〕目をお届けする。
 今回は、巻之四『春』の、発句全118句のうち第39句~50句についてである。

 では、どうぞ‥

【 松尾芭蕉『猿蓑』〔巻之四〕『春』〔第4回〕】

   猿蓑集 巻之四

  田家に有(あり)

39 麦飯(むぎめし)にやつるる恋か猫の妻  芭蕉

【意】いつも麦飯ばかり食わされている田家の痩せ猫も、此の頃恋にやつれて侘し気な姿であることヨ
【解説】君しのぶ草にやつるゝ故里はまつむしの音ぞかなしかりける/よみひとしらず/古今和歌集 秋上
 忍ぶ草にやつるゝ 松虫は古歌の詞の文の美しさにて、「麦飯にやつるゝ恋か」とは俳諧の素朴の実に近きをかしみ也〔幸田露伴/評釈 猿蓑〕
 田舎の雌の痩せ猫が恋をして更にやつれている、とhumorousに読んだ俳句

40 うらやましおもひ切(きる)(とき)猫の恋  越人

【意】あれ程恋に執心だった猫等が、恋の季節が終わると騒ぎがなかったかの様に平然とした顔をしているヨ
 羨ましいことだ/自分にはあの様には出来ない
【解説】「思ひきる時うらやまし猫の声」が原案であることが、芭蕉の珍夕宛書簡で解る/
 芭蕉はこの越人の作品を次の様に述べ褒めている
  「越人猫之句、驚入候 / 初而彼が秀作承候 / 心ざし有ものは終に風雅の口に不出といふ事なしとぞ被存候 / 姿は聊ひがみたる所も候へ共、心は高遠にして無窮之境遊しめ、堅(=)愚之人共にをしえたるものなるべし/孔孟老荘之いましめ、且佛祖すら難レ忍所、常人は是をしらずして俳諧をいやしき事におもふべしと、口惜候」 (『去来抄』)

41 うき友(1)にかまれてねこの空ながめ  去来

【意】思い慕う恋人に言い寄り、怒りを買って噛みつかれたのか、失恋した猫が(屋根の上で)空を眺めている

【解説】古今集 巻十四 恋歌四「大空(おほぞら)は恋しき人のかたみかはもの思ふごとに眺めらるらむ/酒井人真(さかゐのひとざね)/【意】大空は恋しい人の形見なのだろうか/そうでもないのになぜ、ものを思う毎に繁々と眺められるのだろう」を踏まえている
(1)うき友:恋の相手

  露沾公(ろせんこう)にて「餘寒(よかん)(1)」の當座(とうざ)(2)

42 春風(はるかぜ)にぬぎもさだめぬ羽織(はおり)(かな)  亀翁

【意】春風が吹いたのでやっと羽織を脱いだのに、今日は余寒の為また着なくては‥

【解説】―
(1)餘寒:立春後にやって来る寒波のこと
(2)当座:句会での即席の詠題のこと/此処では、「余寒」という題が露沾によって即席で出された

43 ()の梅(うめ)のちりしほ(1)(さむ)き二月(にがつ)(かな)  尚白

【意】野の梅が咲き春の到来を知ったが、処がその梅花の散り頃に寒さが戻って来た二月だ‥
【解説】―
(1)ちりしほ:散り際

44 ()がはり(1)や櫃(ひつ)にあまれるござのたけ  亀翁

【意】奉公人たちが身の回りの物を入れた櫃からゴザが飛び出している/
 (‥何処か滑稽でもあるし、侘しさも感じることだ‥)
【解説】―
(1)出がはり(=出替):奉公人の人事異動のこと/年に2(0305日と0910)に行われた/
奉公人たちは身の回りに一切合財を櫃に詰めて持って異動していく

45 出替(でがはり)や幼(をさな)ごゝろに物(もの)あはれ  嵐雪

【意】出替りの日には、親しかった丁稚さん等が居なくなることを知っていた/幼心にもそれが淋しく感じられる出来事だったのだ
【解説】―

46 骨柴(ほねしば)のかられながらも木()の芽()かな  凡兆

【意】骨柴から芽が出ている/こんな処にも春を感じることだ
【解説】骨柴の芽吹きから、老いて盛んな様を詠んだか
(1)骨柴:枝や葉を取り去った柴のこと

47 白魚(しらうを)や海苔(のり)は下部(しもべ)のかい合(あは)せ  其角

【意】白魚汁には、下男が気を利かせて買い置いてくれた浅草海苔が付けられている/
 何と幸せなことだろう
【解説】其角の家僕は、鵜沢長吉 / 後年、医者になり長庵先生と号した

48 人の手にとられて後(のち)や櫻海苔(さくらのり)(1)  尾張杉峯(2)

【意】桜海苔でも人に摘んで貰ってこそ賞賛されるのだ
【解説】―
(1)桜海苔は紅色の海苔
(2)杉峰については名古屋の人というだけで詳細は不詳

49 春雨(はるさめ)にたゝき出()したりつくづくし  元志

【意】春雨が地面を叩いて、それに呼応した様に土筆(つくし)が芽を出した
【解説】―
(1)元志:尾張の人/詳細不詳

50 陽炎(かげろふ)や取(とり)つきかぬる雪の上  荷兮

【意】春の雪が降った後、すっかり晴れ上がって陽炎が立ち始めた / その陽炎は雪に触れず揺らいでいる
【解説】―

【小生comment
 猿蓑「巻之四/春」を詠んでいると、春に到る様々な情景が思い浮かぶ。
 我々が住む世界も、温かな春はもうすぐ其処だ!

■続いての話題は、去る0224()に、城跡3と神社2、寺院16つの史跡と1資料館を訪ねて来たのでご報告する。
 その日は、08時過ぎに拙宅を出て病院で採血をした後、「岩津天満宮」→「岩津城跡」→「松平東照宮」→「高月院」→「大給城跡」→「足助城跡」→「豊田市足助資料館」と巡って来た。

 添付写真[01][02]は、出発直前、拙宅の中庭に咲いていた紅白梅の花。
 梅花は確りと春の到来を教えてくれている。

  拙宅の紅白梅の二重奏 青天に映ゆる美しさかな  悟空

  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ  菅原道真
 
[01]拙宅中庭に咲いた紅梅の花




[02]同じく白梅の花
                  
0830分 光生会病院
0920分 同所発→〔豊川IC→東名高速→東海環状→豊田東IC〕→


1025分 岩津天満宮着

岩津天満宮の創建は1759(宝暦0)年。

[03]岩津天満宮の鳥居の前にて


[04]同宮の拝殿前にて
                  
[05]合格祈願&合格御礼の絵馬

[06]同宮拝殿前の梅木前にて
                  
1045分 同所発→〔一般道〕→
1055分 岩津城跡「看板」着→


[07]岩津城跡「看板」


 松平氏は、初代・親氏(ちかうじ)→第2代・泰親(やすちか)→第3代・信光(のぶみつ)続く。


 我等が母校時習15回生の先輩で作家の宮城谷昌光(本名:宮城谷誠一)氏が著書「古城の風景l~松平の城~」で次の様に述べている。
 信光が岩津に進出したことによって、この家は恢郭を得た。いや『三河物語』によると、松平豪をでて岩津へ移ったのは、松平家第2代の泰親である。〔中略〕
  『松平由緒書』を重視して、泰親を親氏の弟であるとしたい。泰親は兄が亡くなったあと、遺児(信光)の貢献となって家政に臨んだとおもわれる。〔後略〕

1100分 同所発→〔一般道〕→
1130分 松平郷 松平東照宮着→松平郷館→



[08]松平郷史跡観光案内図

                  
[09]松平東照宮 本殿前にて

[10]松平東照宮 説明看板
                  
[11]松平家初代・松平親氏から第9代・徳川家康迄の年譜

[12]松平一族略系図他
                  

1145分 同所発→〔徒歩〕→
1150分 高月院着


1200分 松平氏墓所〔初代 親氏(中央) 二代 泰親()
 
[13]高月院前にて1

[14]2
                  
[15]同本堂前にて

[16]高月院 説明看板
                  
[17]松平氏墓所

[18]同上 説明看板
                  
[19]高月院近くに咲いていた早春の花 蠟梅

[20]同上 椿
                  
[21]松平豪入口近くの案内看板


1240分 大給(おぎゅう)城跡入口着
1250分 大給城跡本丸跡着
1300分 同所発→〔一般道〕→

 大給松平氏は、松平信光の子で松平第4代・親忠の次男乗元を祖とする松平氏の庶流で、十八松平の一家。
 大給松平氏で、毎時維新迄続いた藩としては、西尾藩(乗元系統)、府内藩(親清系統)、岩村藩(乗政系統)、奥殿藩(真次系統)4家がある。



[22]大給城跡への参道途中にあった大給城跡を示した石碑横にて
                  

[23]大給城跡本丸にて「大給城址」石碑前にて

[24]2
                  
[25]大給城址縄張図 看板

[26]松平乗元の墓
                  
[27]同上 案内看板


1340分 足助城跡着


 足助城は、標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した、連郭式の山城。
 現在残された遺構は、15世紀以降に鈴木氏が築城した跡と考えられている。


 足助の鈴木氏は、15世紀後半の人と云われる忠親以下、重政→重直→信重→康重と5代続いた。
 足助城の年表に拠ると‥

1525(大永05)年 松平清康(家康の祖父)2千余騎にて足助を攻め、以後、鈴木氏、松平の麾下に属す
1554(天文23)年 今川家の家臣・馬場幸家が来攻、鈴木氏は今川方に降りる


1564(永禄07)年 松平元康(家康)3千騎を以て来攻、鈴木氏松平の麾下に属す
1571(元亀02)年 武田信玄が三河侵攻、足助城は武田方・下条伊豆守信氏が城代となる
1573(元亀04)年 武田信玄没(同年04)後、家康の長男・松平信康が足助城を奪取し、旧主・鈴木氏を城主とする
1590(天正18)年 徳川家康の江戸移封に拠り、城主・鈴木氏関東へ赴き、足助城廃城となる

[28]足助城案内看板
                  

[29]足助城跡にて1

[30]2
                  
[31]3

[32]三河 足助城(真弓山城) 解説leaflet1
                  
[33]2

[34]足助城跡本丸 高櫓 外観
                  
[35]同上 内部

[36]同上 より飯盛山 遠望
                  

1420分 同所発→〔一般道〕→
1425分 豊田市足助資料館着

 弓の名手としても知られる、足助氏第7代惣領・足助次郎重範は、1331(元弘元)年の元弘の乱の際、後醍醐天皇方に味方し、鎌倉幕府軍と奮戦。
 笠置山陥落後、幕府軍の捕縛され、1332(元弘02)年 京都六城河原にて処刑された。


 重範は、「雲に聳ゆる段戸山‥」で始まる「三河男児の歌」の第3番で歌われている。
 此の歌は、我等が母校時習館高校の文化祭のcamp fire で歌った。
 次の様な歌詞だった‥

「見よや足助の重範は
 建武の帝(みかど)の大勅(おおみこと)

 拝すや義旗(ぎき)を押立(おした)てて
 黒白(あやめ)を分()かず奮闘し
 笠置の難に従いし
 誉(ほまれ)は山より猶(なお)高し」

[37]豊田市足助資料館 外観

[38]足助次郎重範((しげのり)1292-1332)

                  
[39]足助次郎重範についての解説

[40]足助氏 系譜
                  

1440分 同所発→〔豊田松平IC→東海環状→東名→音羽蒲郡IC〕→
1600分 帰宅

【小生comment
 三河の国は、今回ご紹介した様に、歴史史跡の宝庫である。

 此れからも、ドンドンと史跡巡りをして行きたいと思っている。

【後記】今日は、最近読了した、愛知県生まれの芥川賞受賞作家の平野啓一郎氏の人気作品「マチネの終わりに」の最後のphraseをご紹介してお別れする。
 久しぶりに読んだ恋愛小説だが、単行本で400頁近くのvolume感ある質の高い感動的な小説だった。

 では、どうぞ‥

 どこか遠くのパトカーのサイレンが、彼方の空に轟いて消えた。
 蒔野は、太陽の光の移ろいを感じて、少し足を早めた。先ほどから、彼は、リルケの《ドゥイノの悲歌》のあの《幸福の硬貨》の一節を、断片的に思い返していた。

  「‥‥天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、‥‥彼らは、きっともう失敗しないでしょう、‥‥再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や微笑みを浮かべる、その恋人たち‥‥」
 
 深い緑色の水が覗く「あの池の辺り」に差し掛かると、蒔野は逸る気持ちと不安とで、ギターケースの持ち手を何度も握り直した。周囲を広く見渡しながら歩いた。池に沿ってゆったりと曲がった歩道を抜けたところで、視線の先の木陰に一つのベンチが見えた。
 彼はその場に足を止めた。午後の光が、時間潰しのように池の水面で戯れているのを眩しそうに眺めていた女性が一人、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
 蒔野は、彼女を見つめて微笑んだ。洋子も応じかけたが、今にも崩れそうになる表情を堪(こら)えるだけで精一杯だった。バッグを手に立ち上がると、改めて彼と向き合った。赤らんだ目で、洋子もようやく微笑んだ。二人が初めて出会い、交わしたあの夜の笑顔から、五年半の歳月が流れていた。——完
 
[41]平野啓一郎『マチネの終わりに』


【小生comment
 こんな 恋が出来たら‥いいなァ‥
 では、また‥〔了〕

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