2017年12月1日金曜日

【時習26回3-7の会 0681】~「松尾芭蕉『猿蓑集 巻之一 冬〔その3〕』」「11月23日:京都国立博物館『国宝』展→『曼殊院』→『圓光寺』→『詩仙堂』→『金戒光明寺』を巡って」「11月25日:松坂屋美術館『第102回 再興 院展』→名都美術館『小山硬』【後期】展→碧南市藤井達吉現代美術館『長野県信濃美術館 名品展』を巡って」「11月28日:古川美術館『藤森兼明』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3-7の会 0681】号をお届けします。
 今日最初の話題は、前《会報》に引き続き『猿蓑』〔巻之一〕『冬』の今日は最終回の〔第3回〕目をお届けする。
 今回は、全94句ある「巻之一 冬」の63句~94句迄をご紹介する。
 では、どうぞ‥

【松尾芭蕉『猿蓑』〔巻之一〕『冬』〔第3回〕】

猿蓑集 巻之一        冬

 御白砂に候す

63 (ひざ)つき(1)にかしこまり居()る霰(あられ)かな  史邦(2)
【意】膝つきをつけて御所の庭で畏まっていると霰(あられ)が降って来た
【解説】作者の史邦は京都所司代与力という役目柄、宮中への出入りが仕事であった
(1)膝つき:御所の白州で跪(ひざまずづ)く際に膝に当てる小半畳のうすべり(=縁をつけた筵)のこと
(2)中村史邦((ふみくに)生没年不詳):江戸時代の俳人
 中村春庵を名のり,尾張国犬山の寺尾直竜に医師として仕えた後、去来の伝(つて)で京に上り所司代の与力となった
 元禄0304(1690-91)年頃、芭蕉門下となる/『猿蓑』に14句入集
 元禄04年 芭蕉が江戸に帰る際、芭蕉から二見文台,硯箱,自画像を与えらた
 元禄06年 浪人となり江戸へ移住するが、原因は仕事の上の不祥事と伝わる
 元禄09年 編著に『芭蕉庵小文庫』がある

64 椶櫚(しゅろ)の葉の霰に狂ふあらし哉(かな)  野童
【意】霰(あられ)が落ちて来て椶櫚の葉に当たる音が凄まじく、恰も嵐が到来した感じだ
【解説】―

65 (かささぎ)の橋よりこぼす霰(あられ)かな  伊賀示蜂
【意】銀河が冴え亘る夜、突如霰(あられ)が降ってきた / これは恐らく天河の鵲の橋に降った霰であろう
【解説】「鵲の橋」は、天河で牽牛と織女が一年に一度逢瀬を楽しむ夜に亘るのが「鵲の渡し」で、橋の役割を果たしている話に由来

66 (よび)かへす鮒賣(ふなうり)見えぬあられ哉(かな)  凡兆
【意】寒鮒売りの呼び声に、表に出て呼ぼうとすると、折悪しく霰にかき消されて仕舞ったのたか、鮒売りの姿は見えない
【解説】―

67 みぞれ降る音や朝餉(あさげ)の出()きる迄(まで)  膳所畫好
【意】寒い冬の朝、折悪しく霙(みぞれ)降る音がしている
 此の様に天気が悪ければ仕事に急ぐ必要もないから、朝飯が出来る迄布団の中で霙の音を聞いているとしよう
【解説】―

68はつ雪や内(うち)に居()さうな人は誰(たれ)  其角
【意】初雪に浮かれて家を出て来たが、誰でも初雪となれば家に居る訳ないから、誘おう思っても果たしていったい誰が家に居るものだろうか?
【解説】―

69初雪に鷹部屋(たかべや)のぞく朝朗(あさぼらけ)  史邦
【意】宮中の鷹の巣を見回って異常のないことを確認する / 初雪が降って天気が回復した明け方だ
【解説】この鷹を遣って鷹狩をするに絶好な気候であることを言外に述べた句 / 史邦は京都所司代与力

70(しも)やけの手を吹(ふい)てやる雪(ゆき)まろげ  羽紅
【意】雪(ゆき)まろげを作って帰ってきた幼児の手を見れば霜焼(しもや)けで手が真っ赤だ
 母はその手に暖かい息をかけてやる
【解説】母性溢れる作品/羽紅には娘が1人いた

71わぎも子()が爪紅粉(つまべに)のこす雪まろげ  探丸
【意】雪まろげに赤い紅がうっすらついている
【解説】雪まろげに付いた紅を見て、愛しい彼女のことを思っている‥
(1)わぎもこ:藻塩草で、転じて女子の総称

72下京(しもぎゃう)や雪つむ上(うえ)の夜(よる)の雨  凡兆
【解説】「下京」は京都の下京 / 其処に雪が降ったものの今雨に変わった / 雪に落ちる雨は音もない。
 この句は、『去来抄』によれば、上五に苦吟していた凡兆に、芭蕉が「下京」にするように提案した
  「兆(=凡兆)、汝手柄に此冠を置べし。若しまさる物あらば我二度俳諧をいふべからず」と言ったという

73ながながと川(かは)一筋(ひとすじ)や雪の原(はら)  同
【意】真っ白な雪原に、一筋の川が何処迄も長々と続いている
【解説】絵画的表現が印象的な句

 信濃路を過るに

74 雪ちるや穂屋(ほや)(1)の薄(すすき)の刈(かり)残し  芭蕉
【意】穂屋を作るために刈り取った際に刈り残したススキの原にいま雪が舞っていることであろうか
【解説】元禄3年作/48
 創作年の元禄3年に芭蕉は信濃路を旅してはいない為、詞書の「信濃路を過ぐるに」は、貞亨05年の『更科紀行』の折りの記憶か
 それも『更科紀行』は秋で、雪の降る季節ではなかった為、此の句は、芭蕉の心象風景の作品か
  「雪ちるや」は「本格的な降雪ではなく、ちらちらとちらついて降る状態」を言い、「『冬』の到来」を告げている
(1)穂屋:ススキの穂で作った仮屋で、諏訪の大神が毎年7月、御射山に神幸するに当たり造る御狩屋

 草庵の留主をとひて

75 衰老(すいろう)は簾(みす)もあげずに庵(あん)の雪  其角
【意】「香炉峰の雪は簾を揚げて見る」のであるから、雪が降れば簾を揚げるべきものを、芭蕉庵の留守居の老人は雪が降ったのも拘らず簾を下げた儘
【解説】此の句は、『五元集』に「芭蕉空庵をとひて」と前書/元禄0203年冬、芭蕉が旅に出ていて江戸芭蕉庵を留守にしていた間の作か
 元禄030926日付、芭蕉宛曾良書簡に拠れば、当時芭蕉庵には「愚痴なる浄土の和尚隠居」が移り住んだといあり、此れが「衰老」のmodel

76 雪の日は竹の子笠(がさ)ぞまさりける  尾張羽笠
【意】雪の日は竹の子笠が一番良いヨ / 雪が積らない
【解説】「竹の子笠」は淡竹で作った笠 / 淡竹(はちく)は、真竹より細く、竹の子の芽吹きも遅い / 竹の皮は薄くて小さいがこれで笠を作った

77 (だれ)とても健(すこやか)ならば雪のたび  長崎卯七
【意】綺麗な白雪が降るたびに、「誰だって『健康であって欲しい』」と思わずにはいられないことだ
【解説】此の句は文字通りに鑑賞すれば良いと思われるが、小生、「雪のたび」をどう解釈していいのか解らない
 此処では「雪が降る度(たび)に」と訳してみた

78 ひつかけて行(ゆく)や吹雪(ふぶき)のてしまござ  去来
【意】吹雪の中を旅人が「てしまござ」をささげてぐんぐん歩いていくヨ
【解説】「てしまござ=豊島蓙」は、摂津国豊島郡(現・大阪府池田市)産の蓙(ござ)/或いは、美濃国手島産とも
 幅狭く丈が短く軽量な為携帯に便利で、旅人の雨具はじめ多くの用途に用いられた

  青亜追悼

 79 乳のみ子に世を渡したる師走(しはす)(かな)  尚白
【意】(青亜は)此の師走に乳飲み子を遺して逝って仕舞ったなぁ
【解説】詞書の「青亜」(=青鴉)は、大津の蕉門俳人 / 貞亨04(1688)12(師走)に死去

80 から鮭(ざけ)も空也の痩(やせ)も寒(かん)の内(うち)  芭蕉
【意】「乾鮭」も「空也僧(鉢叩き)」も正に此の寒い「寒の内(1)」の風物詩だ
【解説】元禄0312月 芭蕉48歳、京都での作
 空也は、平安中期の天台宗の僧で「踊念仏」の開祖とされ浄土信仰を広めた(←空也自身が踊念仏をした確証はない)
 中でも時宗の開祖の一遍上人は空也の影響を強く受けたとされている
 空鮭(からざけ)=(乾鮭))は、鮭の腸を取り去り素干しにしたもので、痩せ細ったものの象徴 / 空鮭は寒中に作られ市中に出回る
 此処でいう空也は「空也僧」のこと
 空也僧は、1113日の「空也忌」から48日間寒中修業に入る
 当該修業中は、毎夜未明に腰に瓢箪を巻き付け念仏を唱え、鉢を叩き、和讃(わさん)=仏教歌謡の一つ)を唱えつつ踊り乍ら街中を巡り米銭を乞うた
 一句は破裂音の3つのK(「乾(から)鮭」「空(くう)也」「寒(かん)の内」)の音韻で並ぶが、引き締まった音感が寒中の空気を連想させる
 又、「も」「の」「も」「の」という4つ助詞も、此の句をrhythmicalな響きを与えている
 本句は、芭蕉最高傑作の一つと高く評価されている
(1)寒の内:「小寒」から「節分」迄の一年中で一番寒い季節

81 (はち)たゝき憐(あはれ)は顔に似ぬものか  乙刕(=乙州)
【意】現実の鉢叩きの顔を見ると「ものの憐(あわれ)」に似つかわしくない顔だったりして‥
【解説】本来、鉢叩きの音は憐(あわ)れを催す筈なのであるが、現実はそうではないという処が此の句のオチ

82 一月(ひとつき)は我(われ)に米かせはちたゝき  丈艸
【意】貧乏丈草としては、其の米の一月分を俺に貸して欲しいヨ
【解説】鉢叩きは、毎夜毎夜喜捨(きしゃ=施し)を求めて巡った

 住吉奉納

83 夜神楽(よかぐら)(1)や鼻息(はないき)白し面()ンの内  其角
【意】夜神楽を奏する人のお面の鼻の穴から白い息が噴き出ているのが見えるヨ
【解説】和歌の神様でもあった摂津国・住吉神社に奉納した一句
(1)夜神楽:陰暦11月 禁中以外の諸社で行う里神楽のこと

84 節季候(せきぞろ)(1)に又(また)のぞむべき事もなし  伊賀順琢
【意】節季候(せきぞろ)に頼む事が何もない程、毎日が何事もなく過ぎてゆく‥
【解説】―
(1)節季候(せきぞろ):陰暦1222日頃から歳末に、赤布で顔を覆い、23人連れで「せきぞろ/\」と唱え、祝詞を述べて踊り各戸で米銭を貰い歩いた乞食

85 家々(いえいえ)やかたちいやしきすゝ拂(はらひ)  同祐甫
【意】どの家も年末行事の煤(すす)払いをしている / いつ見てもその煤払いの恰好はいいものではないワナ
【解説】―

 乙刕(=乙州)が新宅にて
86 人に家をかはせて我は年忘(としわすれ)  芭蕉
【意】乙州に買わせて仕舞った(=乙州が私を招待してくれた)新居で、私は悠々と年を忘れて過ごさせて頂くいいご身分でいる / 何とも有難いことだ
【解説】元禄3年師走/『曲水宛書簡』には、「まだ埋火の消やらず、朧月末京都を退出、乙州が新宅に春を待て」としてこの句が出てくる
  「埋火」云々は、「住みつかぬ旅のこころや置炬燵」の句の感覚が消えないうちにこの句を作ったという事情を説明するもの
 乙州が新宅に自分(=芭蕉)を招待してくれたことを、「人に家を買わせて」と言った処が面白い
 些事を人に任せて、「何の心配もなく年を忘れることが出来る」と、主人への御礼の挨拶としている句

87 弱法師(よろぼうし)(1)(わが)(かど)ゆるせ餅(もち)の札(ふだ)(2)  其角
【意】当方には乞食にやる餅代がないので拙宅の門の貼り札には「餅所望はご勘弁を!」と記してあるのだが‥
【解説】―
(1)弱法師(よろぼうし):乞食のこと / 年末になると現れて民家に餅を所望する
(2)餅の札:『俳諧歳時記栞草』に「吾山遺稿」を引き、「江戸にて非人ども門々に立て、餅春の祝ひとて餅を乞ふ。乞ひ得たる家とこはざる家との印に、門の柱に紙にて判を押して張(はり)置くなり」とある

88 (とし)の夜()や曽祖父(おほじ)を聞けば小手枕(こてまくら)  長和
【意】大晦日の夜、家族は酒盛り等をし乍ら夜を明かしているが、ふと見れば、年寄りは寝るのも憚って手枕で寝ているヨ
【解説】長和は江戸の人だが不詳

89 うす壁(かべ)の一重(ひとへ)は何(なに)かとしの宿(やど)  去来
【意】拙家の薄い一重の壁を通過して去年(こぞ)が過ぎ、今年(新年)が遣って来た
【解説】―

90 くれて行(ゆく)年のまうけ(1)や伊勢くまの(2)  同
【意】今正に年が暮れてゆこうとしている / 伊勢神宮や熊野三社では、きっと今頃は年越しの用意で大忙しだろう
【解説】―
(1)年のまうけ(=年の設け):年越しの用意のこと
(2)伊勢くまの:伊勢神宮と熊野三社(=熊野三山「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」)のこと

91 (おお)としや手のを(=)かれたる(1)人ごゝろ  羽紅
【意】今日は大晦日だ / 時間が刻一刻と過ぎ去ってゆく / 人心など手出し出来ない程の大きな力で時が過ぎていく
【解説】―
(1)手のおかれたる:手出しがならない意

92 やりくれて又やさむしろ歳(とし)の暮(くれ)  其角
【意】一年分溜まった此れ迄の借金確り遣り繰りし清算し終えたら、此の年の暮れも又狭筵(さむしろ)だけの素寒貧(すかんぴん)になって仕舞った
【解説】「けふは大晦日とて、第一に酒屋・魚屋・八百屋・米屋・薪屋と掛乞のつどひ来(きた)れるに、夫々にかりを払ひけり。扨又(さてまた)あの義理此義理に金銭を呉れ与へて、して又家に一銭も残らず。さむき小筵に歳を暮すはと、自得の句也と知るべし」〔猿蓑さがし〕

93 いねいねと人にいはれつ年の暮  路通
【意】何処へ行っても「去()ね去()ね」と言われてばかり、の其の様な私の年の暮だ
【解説】元禄03年 八十村路通(1649-1738)が江戸に滞在中の作
品行に難があった路通の生き様の一旦が解る句
とは言え、路通は芭蕉に認められ、近江蕉門の中で相応の存在感を持っていた

94 年のくれ破れ袴(ばかま)の幾(いく)くだり(1)  杉風
【意】年の暮になった / 今年はいったい何本の袴を擦り切らせて仕舞ったことだろう
【解説】杉山杉風(1647-1732)は、父の代から幕府に魚を納めるお納屋(なや)で、鯉屋を称した
 芭蕉の江戸出府と同時に入門し、蕉門の発展に貢献すると共に、芭蕉を経済面でも支援した
(1)くだり:袴(はかま)の数単位

【小生comment
 今回の「巻之一 冬」については最終回である。
  「猿蓑集」で、春夏秋冬の中でまだお届けしていないのは、「巻之四 春」となった。
 因みに「巻之四 春」の最後を締め括る118句目は、「巻之一 冬」の巻頭を飾る「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と共に大変有名な「行春を近江の人とお(=)しみける」である。
 季題が「春」なので、時節は「立春」以降にお届けすることとしたい。
 その時を是非楽しみにしていて下さい!

■続いての話題は、先週11/23(祝金))に、my car で京都国立博物館 開館120周年記念『国宝』展 第4期 と、曼殊院や圓光寺→詩仙堂→金戒光明寺を見て来た。
 ホント、素晴らしい 京都国立博物館『国宝』展 と 4寺の絶景の紅葉だったでのお伝えしたい。
 以下の schedule 行程の一日だった。

0515分 拙宅発→東名・新東名・名神→
0750分 岡崎公園駐車場着
0755分 同所発→徒歩→
0759分 東山二条→京都市営バス206系統→
0825分 博物館・三十三間堂前下車→徒歩
0830分 京都国立博物館着→0930分の博物館開館迄入口前にてwaiting

[01]京都国立博物館敷地内の『国宝展』看板をback

[02]博物館入口付近の混雑
                  
[03]同館内の入口にて

[04]源氏物語絵巻 竹河〔一〕/愛知・徳川美術館
                  
[05]伝 源頼朝像/京都・神護寺

[06]尾形光琳筆『燕子花図屏風』/東京・根津美術館
                  
[07]如拙筆『瓢鯰図』/京都・妙心寺 退蔵院


博物館の大混雑を見込み、開館60分前より待機‥の予定だったが、開館0930分の1時間前から待ち人の人・人・人‥‥
 その時、「開館0930分後、何分位で入館出きるだろうか? そして見終えるのは何時になるのかな?」と思った。
 京都国立博物館の国宝展は、ゾクゾク・ワクワクの連続!
  「如拙の瓢鯰図」「伝 源頼朝像」「源氏物語/竹河〔一〕」「尾形光琳筆/燕子花図屏風」など、所蔵されている現地へ行っても通常は見られない名品の本物を見ることが出来た。

[08]博物館を出た時点での入館待機者達の長蛇の列1
                  
[09]2

[10]3
                   

 当博物館を出る時の混雑は凄かった。
 当初一緒に行く予定だった partner が来れなかったので、切符を買い求めているcouplepresent
 吃驚した coupleだったが、事情を話して ticket をあげたら凄く喜んでくれ、チョットいい気分になれた。
 国立博物館を出て徒歩数分の所にある京阪電鉄 京阪本線 七条(しちじょう)駅に向かった。
 同駅から北上すること10分で出町柳駅。
 其処で、叡山電鉄に乗り換え此れから 曼殊院 に向かう

10:45 同所発→徒歩→
10:56 七条→京阪→出町柳→叡山電鉄→
11:21 修学院着→徒歩〔コンビニで軽食〕→
12:00 曼殊院着

[11]曼殊院門跡 勅使門前にて

[12]同 勅使門周辺の紅葉1
                  
[13]同 同2

[14]同 同3
                  
[15]同 北通用門付近にて

[16]同 大書院縁側より庭園のback
                  
[17]同 紅葉

[18]同 曼殊院門跡 説明看板
                   

 曼殊院は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院。
 伝教大師の草創に始まり、開基是算(ぜさん)国師。
 青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並ぶ、天台五門跡の1つ。
 明暦02(1657)年 桂離宮を造営した八条宮(桂宮)智仁(としひと)親王(1579-1629)の次男 良尚(りょうしょう)法親王が門跡の時、現在の地に移転。
 本院の様式は、桂離宮との関連が深く、閑静な佇まいの中に、気品を感じさせる明察である。

【小生comment
 現在の曼殊院を建てた良尚法親王は、桂離宮を建てた父君 八条宮智仁親王の感性を引き継いだのだろう。
 建物の其処此処に桂離宮と同じ様な気品を感じた。
 素晴らしい! の一言である。

12:35 同所発→徒歩→〔860m 12分〕→
12:48 圓光寺着

 圓光寺は、慶長06(1601)年 徳川家康が国内教学発展を図る為、下野足利学校第九代学頭 三要元佶(さんよう げんきつ)(閑室)禅師を招聘し、伏見に「圓光寺」を建立して学校とした。
 師は、崇伝や天海らと共に黒衣の宰相の一人として幕政に参与したと言われる。
 その後、圓光寺は相国寺山内に移転し、更に寛文07(1667)年 当地に移転し現在に至っている。

[19]圓光寺 正門前にて

[20]本堂より著名な額縁庭園「十牛之庭」を望む
                  
[21]十牛之庭にて

[22]十牛之庭の風景1
                  
[23]2

[24]3
                  
[25]4

[26]庭園の一角にある竹林
                   

圓光寺を離れる直前、可愛らしお地蔵さんを見つけた。

[27]可愛らしいお地蔵さん

[28]圓光寺を離れる際、正門の両脇脇にあった大輪の菊1
                  
[29]2


【小生comment
 当寺は左京区一乗寺にある。
 嘗てJR commercial で紹介され一段と有名になったが、実際に訪れてみて評判通りの絶景の紅葉と庭園を堪能することが出来た。
 本堂から眺める「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」が、本堂の柱と床&天井に区切られて、恰も額縁に嵌った風景絵画の様に見える所謂「額縁庭園」として楽しめるた。

圓光寺を発ち、次は詩仙堂に向かった。

13:25 同所発→徒歩〔180m 3分〕→
13:28 詩仙堂着

 現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)という。凸凹した土地に建てた住居の意。
 又、現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺で、寺院名を 丈山寺 という。
 詩仙堂の由来は、当堂の主である、石川丈山(1583-1672)が、狩野探幽筆による中国唐宋時代の詩家36人の肖像画に、丈山自身が36人の詩を書して四方の壁に掲げた「詩仙の間」に由来する。
 主の石河丈山は、天正11(1583)年 三河国泉郷(現・安城市)に生まれた。
 石川家は代々徳川譜代の臣で、丈山も16歳で家康に近侍した。
 33歳の大阪夏の陣で先登の功名を挙げたが、此れを最後に徳川家を去り、京都にて藤原惺窩(1561-1619)に朱子学を学んだ。
 そして、紀州和歌山の浅野家に仕官し、浅野家の転封に従い芸州広島に赴き、其処で13年仕えた。
 その後、丈山は54歳の時、京都・相国寺畔に住んだ後、寛永18(1641) 59歳で詩仙堂を造営し、没する迄の30年余りを清貧の中過ごした。
 〔以上、詩仙堂〕

[30]詩仙堂 山門前にて
                  
[31]同 山門

[32]同 至楽巣から庭園を望む
                  
[33]同 庭園から詩仙の間をback

[34]同 庭園から詩仙の間・嘯月楼を望む
                  
[35]同 庭園の風景1

[36]同 同2
                  
 
【小生comment
 詩仙堂の紅葉も中々良かった。

13:53 同所発→徒歩→〔500m 6分〕→

 途中の道すがらにあった、宮本武蔵と吉岡道場一門との決闘を見た「下り松」の3代目の松があった。

[37]一条寺下り松 由緒書

[38]一条寺下り松の一角
                  
 
14:10 バス停「一条寺下り松」発→〔市営バス〕→
14:40 バス停「東天王町」下車→徒歩〔50m 1分〕→
14:41 岡﨑神社着

[39]岡崎神社 鳥居

[40]同 由緒書
                  
[41]同 本殿と氏神の使いとされるうさぎの吽形


14:48 同所発→徒歩→〔隣接 100m〕→
14:49 金戒光明寺着

[42]黒谷本山 金戒光明寺 参拝道入口にて
                  
[43]會津墓地参道 案内石碑

[44]徳川二代将軍秀忠の正室 江(ごう) 供養塔案内
                  
[45]金戒光明寺 境内の風景1

[46]同 同2
                  
[47]同 同3

[48]同 御影堂
                  
[49]同 熊谷直実 鎧(よろい)掛けの松

[50]同 大方丈 横の「紫雲の庭」にて
                  
[51]同 紫雲の庭(枯山水)風景1

[52]同 同2
                  
[53]同 同(池泉回遊式庭園)風景1

[54]同 同2
                  
[55]同 同3

[56]同 同 をbackして
                  
[57]同 同2

[58]同 同風景4
                  
[59]同 同5

[60]同 同6
                  
[61]同 同7

[62]同 同8
                  
[63]同 同9

[64]同 同10
                  
[65]同 同11

[66]同 山門1
                  
[67]同 同2

[68]同 高麗門前にて
                  

16:20 金戒光明寺 高麗門発→徒歩〔750m 10分〕→

[69]金戒光明寺から岡﨑公園駐車場迄の道端の南天の実


【小生comment
 幕末、会津藩主 松平容保が京都守護職を務めた本部を設置した場所としてあまりにも有名。
 秋の特別公開で、御影堂、大方丈、庭園、山門の内部を拝観出来嬉しかった。
 写真をご覧頂いた方は納得されたと思うが、此処の庭園の紅葉も実に素晴らしかった。

16:45 岡﨑公園駐車場発→〔京都東IC:名神・新名神(土山SAにて夕食)・伊勢湾岸・東名:豊川IC〕→
20:20 帰宅〔了〕今日は充実した一日を過ごすことが出来た

■続いては、1125() 名古屋へ月に一度の歯の検診に行ったついでに 松坂屋美術館『第102回 再興 院展』展→名都美術館→『小山硬』【後期】展→碧南市藤井達吉現代美術館『長野県信濃美術館 名品展』展 と見て来た。模様を以下にお伝えする。

08:30 拙宅発→東名→伊勢湾岸道→名古屋高速 東別院IC
09:55 エンゼルパーク駐車場着
10:00 松坂屋美術館『再興 第102回 院展』

【松坂屋美術館『第102回 再興 院展』展】

[70]松坂屋美術館入口にて
                  
[71]本展 leaflet / 右の絵は 同人 川瀬麿士『白嶺』

[72]同人  小田野尚之『小さな駅』:内閣総理大臣賞
                  
[73]同人  宮廻正明『位相空間』

[74]同人  那波多目功一『古都の春』
                  
[75]同人  松村公嗣『舟唄』

[76]同人  手塚雄二『新緑の沼』
                  
[77]同人  下田義寛『早晨 氷結する湖』

10:50 同所発→名古屋高速→本郷IC
11:20 名都美術館着『小山硬』【後期】展

【名都美術館『小山硬』【後期】展】

[78]名都美術館入口
                  
[79]『初音 つづみ』1984

[80]『唐三彩(2) 人馬』1988
                  
[81]『初音 うぐいす』1980

[82]『蔵』1950
                  

11:50 同所発→一般道→
12:30 陣屋〔昼食〕
14:00 N歯科医院〔歯科健診〕
14:30 同所発→名古屋高速→知多自動車道→
15:15 碧南市藤井達吉現代美術館『長野県 信濃美術館 名品』展

【碧南市藤井達吉現代美術館『長野県信濃美術館 名品展』展】

[83]碧南市藤井達吉現代美術館外観

[84]同館内にて
                  
[85]左:図録表紙の絵は 菱田春草『羅浮仙』1901年 / 右下 : 矢沢弦月『童謡』(部分) 1916

[86]荻原守衛(碌山)『女』1910
                  
[87]小山敬三『暮れゆく浅間』1968

[88]中村不折『西洋婦人像』1903-04年頃
                  
[89]石井柏亭『画室小集』1949

[90]山本鼎『白菜と赤蕪』1937
                  
[91]河野通勢『長野の近郊』1915

[92]奥村土牛『白日(ひまわり)1949
                  
16:00 同所発→道→
17:50 帰宅〔了〕

【小生comment
 24年間世話になり続けている診療とは言え、健診だけの為に名古屋に出かけるのは勿体ない‥と言うことで、合わせて3つの美術館を巡った。
 2日前に京都に日帰り旅行したばかりなので、美術館を3つ巡ることを一瞬躊躇った。
 が、一度しかない人生だ‥「大腸癌も罹患したから、いつ又お迎えが来るカモしれない / 身体が元気なうちに遣りたいことは遣っておこう」と思い直して巡って来て矢張り良かった。

【後記】1128()、仕事の一環で名古屋駅前にあるウィンクあいちにて開催された税制関係の講演会に行って来た。
 名古屋駅前に降り立ったら、先日(11/17)上京した丸の内&大手町に匹敵する高層ビル群が屹立している雄姿に魅せられた。
 写真はその時撮影したもので、フッと拙歌が浮かんだ

  突き抜ける此れぞ名古屋の摩天楼 リニア(新幹線)が添へむ明るき未来()  悟空

[93]名古屋駅前の超高層ビル群1

[94]2
                  
[95]3

[96]4
                  

 講演会終了後に池下まで足を延ばして、古川美術館にて開催中の「藤森見昭―人を見せる技―」展を見て来た。

[97]古川美術館入口

[98]藤森兼明『装う』1974
                  
[99]同『女の季』1988

[100]同『ビザンチンの光』1991
                  
[101]同『聖者のノクターン』1995

[102]同『イスタンブールのオマージュ』1996
                  
[103]同『アドレーション・サンタ・アポリナーレ』2007

[104]同『アドレーション・サンタカタリーナ』2009
                  
[105]同『喜太郎 シルクロードから天空へのオマージュ』2016

[106]同『ミドバル / マニスクリプトへのオマージュ』2017
                  
[107]高光一也『フードの女』1972

【小生comment
 藤森兼明(1935- )氏の婦人像は、caption にも記されていたが、金沢美術工芸大学時代の師 高光一也(1907-86)の影響を大きく受けている。
 添付写真の絵[107]は、2015/11/29 勤務先の社員旅行で金沢に行った際に立ち寄った石川県立美術館で見た 高光一也『フードの女』1972年。
 ご覧の様に、藤森氏の作品とよく似ているデショ!
 名画ってホント素晴らしい!^_−☆〓
 では、また‥〔了〕

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