2017年6月18日日曜日

【時習26回3−7の会 0657】〜「松尾芭蕉『幻住庵記』〔第3回〕【さすがに春の名残も遠からず‥魂、呉楚東南に走り、身は瀟湘洞庭に立つ】」「06月11日:名古屋ボストン美術館『パリジェンヌ展』を見て」「06月11日:愛知県芸術劇場concert hall /R. Wagner作曲:楽劇『ワルキューレ』を見て」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0657】をお送りします。
 先ず最初にお届けするのは、前々号に開始した『幻住庵記』の今日はその〔第3回〕をお届けする。
 ご参考に、今回も従前からの繰り返しになるが、『野ざらし紀行』〜『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日『嵯峨日記』を執筆した落柿舎へ。
  『野ざらし紀行』から『嵯峨日記』迄の6年間の歳月は、芭蕉の人生に於いても最も脂が乗った時代だった。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『幻住庵記』等の名作を生みだしている。
  『幻住庵記』は、『嵯峨日記』からこれも丁度一年前の元禄三(1690)年四月六日から七月二十三日迄、膳所本多藩士 菅沼定常(曲水、のち曲翠)から借り受けた山荘での模様を記したもの。
 猶、『幻住庵記』の最後は、有名な句「先づたのむ椎の木もあり夏木立」で締め括り、「元禄三仲秋日」と記してあることから、八月下旬に脱稿したことを示している。
 以下に、『野ざらし紀行』を終え『嵯峨日記』の落柿舎へ行く迄の一連の芭蕉の動きを時系列的にごく簡単にご紹介すると‥

貞享02(1685) 12 (42)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686) 01 (43) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行
             「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687) 01 (44) 幕府「生類憐みの令」発布
         0825日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』成る
         1025日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
         1112日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ
             「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬  伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688) 0408 (45) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す
             「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         0420日 須磨・明石を廻って須磨に泊す
             明石夜泊「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
             ‥『笈の小文』は此処で終わる
         0811日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         0815日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」
         0816日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着
         0930日 元禄に改元
元禄02(1689) 0327(46) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発
            千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
        0513日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
        0527日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
        0603日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
        0616日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
        0712日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
        0725日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
        0906日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わ
            「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
        0913日 伊勢神宮内宮参拝
0922日 伊賀上野へ帰郷
        1122日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
        秋〜冬:この頃【不易流行】を説く
        12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690) (47) 0103日 膳所から伊賀上野へ帰郷
        03月中旬迄 伊賀上野に滞在
        0401日 石山寺 参詣
       【 ☆ 0406日 愛弟子の杜国死去(0320)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆ 】
      【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
      【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 / 0619日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
      【 ☆ 0723日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
      【 ☆ 0815日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
      【 ★★★ 〔 08月下旬『幻住庵の記』脱稿 〕★★★ 】
        0927日 一泊二日でへ、そして伊賀上野へ発つ / 11月上旬 伊賀上野から京都へ
        1223日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691) (48) 0106日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕
        3月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
        03月末 奈良から大津へ移動
        0418日〜0504日迄 京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごし『嵯峨日記』執筆開始

【幻住庵記】

《原文》

 さすがに(1)春の名残も遠からず、躑躅(つつじ)咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥(ほととぎす)しば/\過ぐるほど、宿かし鳥(2)のたよりさへある(3)を、木啄(きつつき)のつゝくとも厭(いと)はじなんど、そゞろに興じて、魂(たましひ)、呉楚東南(4)に走り、身は瀟湘(5)洞庭(6)に立つ。
 山は未申(ひつじさる)(7)にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫(なんくん)(8)(みね)よりおろし、北風(ほくふう)(うみ)を浸(ひた)して涼し。
 日枝(=比叡(ひえ))の山、比良(ひら)の高根より、辛崎(からさき)の松(9)は霞こめて、城(11)あり、橋(12)あり、釣たるゝ船あり。
 笠取(10)に通ふ木樵(きこり)の声、麓(ふもと)の小田(おだ)に早苗(さなへ)とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたゝく音(13)、美景物として足らずといふことなし。
 中にも三上山は士峰(しほう)の俤(おもかげ)に通ひて(14)、武蔵野の古き住みかも思ひ出()でられ、田上山(たなかみやま)(15)に古人(いにしへびと)をかぞふ。

 《現代語訳》
 矢張り、春の名残りは遠くはなく、ツツジが咲き残り、山藤が松に掛かって、ホトトギスが屡々飛び過ぎていくうちに、カケスの声迄聞こえて来るので、庵を啄木鳥に突(つつ)かれるのも気にしない等と、何となくいい気分で、魂は「呉と楚が東南に坼()け‥」と杜甫の(『登岳陽樓(岳陽樓に登る)』という詩にある洞庭湖に走り、身は(北宋の宋迪が描いた)瀟湘(八景で有名庵)洞庭湖の畔(ほとり)に立っている。
 山は南西の方角に聳え立ち、人家は丁度良い位に隔たっていて、南風が峰から吹きおろし、北風が琵琶湖を浸して涼しい。
 比叡山・比良の高根から、辛崎の松は霞に包まれ、城あり、橋あり、釣り糸を垂れている船がある。
 笠取山に通う木こりの声、麓(ふもと)の田に早苗を摘み取る歌(=「田植え歌」)、蛍が飛び交う夕闇の空にクイナの鳴き声、実に美しい景色として不足(した処)が無い。
 中でも三上山は(近江富士と言われ)富士山の俤があり、武蔵野の古き住みかも思い出され、田上山に古人の墓を訪ね巡る。

《語句》
(1) さすがに:そうはいうものの / 矢張り
(2) 宿かし鳥:カラス科の鳥「カケス」の別名
(3) たよりさへある:鳴き声まで聞こえて来る
(4) 呉・楚東南:杜甫「登岳陽楼」の「呉楚東南に坼()け」による / 洞庭湖と琵琶湖とを重ね合わせている(本作品は、768年 杜甫57歳の作)
   登岳陽樓  岳陽樓に登る 杜甫(712-770)
  昔聞洞庭水  昔聞く洞庭の水
  今上岳陽樓  今上る岳陽楼
  呉楚東南裂  呉楚 東南に裂()
  乾坤日夜浮  乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮ぶ
  親朋無一字  親朋(しんぽう) 一字無く
  老病有孤舟  老病 孤舟有り
  戎馬關山北  戎馬 関山(かんざん)の北
  憑軒涕泗流  軒(けん)に憑()りて涕泗(ていし)流る

【意】昔より(風光明美な所として)その名を聞いていた洞庭湖
 今、私はこうして湖畔の岳陽楼に佇んでいる
 呉楚の地は、湖の東と南に引き裂かれた様に広がっている
 広大な湖面は、天地間の万物(=乾坤)が、日夜夫々の姿を映し出している
 今私には、親しい人々からの便りも全くなく
 年老いた病身には、一艘の子舟があるだけだ
 関山を隔てる北方の地域では、戦乱が続いている
 こうして欄干に寄り掛かっていると、様々な感慨から涙が止め処もなく流れるのである

【語句/解説】岳陽楼:現在の中国湖南省岳陽県の、県城の西にある楼閣/洞庭湖東岸の名勝
 洞庭水:洞庭湖/長江中流域にある中国第2位の広さを持つ湖
 呉楚東南裂:呉(長江東南一帯)と楚(洞庭湖南一帯)の地域が、この洞庭湖に拠り東と南にひき裂さかれて
 乾坤:陰と陽、天と地、日と月等、此処では天地間の万物をいう
 親朋:親戚と友人達
 無一字:一字の便りもない、手紙が全く来ない
 戎馬:軍馬/「戎」は軍事を指す/戦乱状態にあることを表している
 関山:関所のある山々
 軒:楼閣の周りの手摺(勾欄)、欄干
 涕泗:「涙」は眼から出る「なみだ」、「泗」は鼻から出る「鼻みず」

(5) 瀟湘:中国湖南省 / 瀟水と湘水が洞庭湖に注ぐ辺りの地方
(6) 洞庭湖:洞庭湖 / 中国湖南省北東部の湖 / 風光明媚な湖として古来から有名
(7) 未申:南西の方角
(8) 南薫:南風
(9) 辛崎の松:辛崎の一つ松 / 近江八景の一つ /「辛崎の松は花より朧にて」(芭蕉)
(10) 笠取:宇治北東の笠取山 / 琵琶湖と宇治川の中間あたり / 芭蕉は『方丈記』を念頭に表現している
(11) 城:膳所本多藩の居城
(12) 橋:瀬田の唐橋 / 此処も近江八景の一つ
(13) 水鶏のたたく音:「水鶏」はクイナ科の鳩より一回り小さい水鳥 / その鳴き声が戸を叩く音に似ている
(14) 三上山は士峰の俤に通ひて:三上山は通称「近江富士」と言われる
(15) 田上山:大津市南部、瀬田川東岸の田上から大石にかけて繋がる山々の総称

【小生comment
 芭蕉がこの琵琶湖湖畔の風景をかなり気に入っていることが確り伝わって来る文章である。
 近江八景を、その元となる瀟湘八景を重ね合わせて、琵琶湖と洞庭湖の風光明媚さを称賛している。

■さて次の話題は、0611() 名古屋へ行き、名古屋ボストン美術館『ボストン美術館所蔵/パリジェンヌ(Parisienne)展‥時代を映す女性たち‥』を見て来たのでご紹介したい。
 主催者は、本展について《ごあいさつ》で次の様に説明している。
 Parisという魅力ある都市に生きる女性、Parisienne
 Salonの主催者、子育てに励む母親、流行を生み出すFashionista(ファッショニスタ)、画家のMuse(ミューズ)、そして自ら道を切り開き才能を開花させた画家や女優――彼女たちは時代の変化と共に、様々な表情を見せて来た。
 その生き方や装い、「Parisienne」というstyleは、今猶私たちを惹き付けてやまない。
 本展では、ボストン美術館所蔵の作品約120点を通して、18世紀~20世紀のParisを体現する女性たちの姿に迫る。〔後略〕

[01]名古屋ボストン美術館入口の本展案内看板

[02]同美術館内でのsnap shot
                  
[03]本展leaflet()

[04]同上()
                  
[05]フランソワ・ユベール・ドルーエ(1727-75)『トルコ風の衣装を着たマルグリット・カトリーヌ・エノー嬢/後のモンムラ侯爵夫人』1762

[06]ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)『チャールズ・E.・インチズ夫人(ルイーズ・ポメロイ)188712
                  
 その生涯の多くを海外で過ごした画家のサージェントは、米国本土でCharles E. Inches夫人である Louise Pomeroyを描いた

 サージェントは、米国人modelに、Parisienneが持つ官能的で関心のなさそうな「名状しがたいもの(je ne sais quoi)」を与えている

[07]ウィリアム・モリス・ハント(1824-79)『マルグリット』1870

 画題の『マルグリット』とは、フランス語でヒナギクのことで、modelの彼女の手の中にある帽子を飾っている花である

[08]ベルト・モリゾ(1841-1895)『器の中の白い花』1885
                  
 印象派の女性3人というと、ベルト・モリゾ、メアリー・スティーヴンソン・カサット、マリー・ブラックモン

[09]メアリー・スティーヴンソン・カサット(1844-1926)『縞模様のソファで読書するダフィー夫人』1876

 カサットは1879年 印象派の展覧会に始めた参加した

[10]エドガー・ドガ(1834-1917)『美術館にて』1879-90年頃
                  
 本作品のmodelの女性2人は、画家のカサットと彼女の姉だと見做されている
                  
[11]ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)『アルジェリアの娘』1881

[12]エドゥアール・マネ(1832-83)『街の歌い手』1862年頃
                  
[13]ジュール・シェレ(1836-1932)『モンターニュ・リュス』1889-90年頃

【小生comment
 本展展示作品の中では、ルノワール『アルジェリアの娘』も可愛いが、カサット『縞模様のソファで読書するダフィー夫人』(1876)が気品があって一番小生は好きだ。

■さて次の話題は、0611日:愛知県芸術劇場concert hall R. Wagner作曲:楽劇『ワルキューレ』を見て来たことについてご報告する。
 除夜と3日間の舞台祝祭劇「ニーベルングの指輪」から楽劇『ワルキューレ(Die Walkure)』全三幕11場を視聴した。
 2回の休憩時間を含め5時間という超大作を、concert形式で演奏された。
  『ワルキューレ』の中身については、その詳細は又の機会にということで、今回はごく簡単に筋書きだけをお伝えする。
  『ワルキューレ』は、第3幕冒頭の「ワルキューレの騎行」の場面を除くと殆どが2人の対話か3人に拠る会話で過ぎていくので歌劇としては意外と地味だ。
 あらすじはごく簡単にに言うと以下の通りである。

1幕:「フンディングの家に迷い込んだジークムントとジークリンデの対話」
      「フンディングが帰宅した後のフンディング、ジークフリート、ジークリンデ3人の会話」
2幕:「ジークムントとジークリンデの逃避行」
      「ヴォータンを責める妻フリッカ」
      「ヴォータンとブリュンヒルデ」
      「ジークムントとジークリンデの逃避行の帰結=ジークリンデの錯乱」
      「ブリュンヒルデに拠るジークムントへの死の告知」
      「ブリュンヒルデの父ヴォータンへの裏切り」
      「ヴォータンの力でフンディングがジークムントを斃し、そのフンディングをヴォータンがに斃す」
3幕:「ワルキューレの騎行」
      「ブリュンヒルデがジークリンデにジークムントとの子『ジークフリート』を宿していることを告知」
      「ブリュンヒルデがヴォータンに拠って炎の中に閉じ込められ深い眠りつく」

[14]愛知県芸術劇場concert hall入口の本演奏会案内看板の横にて
                  
[15]指揮:三澤洋史(左上)/演出構成:佐藤美晴(右上)./ジークムント:片寄純也(左下)/ジークリンデ:清水華澄(右下)

[16]フンディング:長谷川 顯(左上)/ヴォータン:青山 貴(右上)/ブリュンヒルデ:(左下)/フリッカ:相可佐代子(右下)
                  
 【小生comment
 楽劇『ワルキューレ』は、第3幕冒頭の「ワルキューレの騎行」の場面が一番有名。
 具体的には、ブリュンヒルデを除く8人のワルキューレ達が英雄達の屍を馬に乗せて「ホヨトホー」と叫び声を上げ乍ら集まって来る場面だ。
 本演奏会は、concert形式なので、舞台正面のpipe organの処でワルキューレ達が歌った。

【後記】0611()Wagner作曲楽劇『ワルキューレ』演奏会は、1500分に開演され、2000分少し前に終演となった。
 それから名駅のセントラルタワーズ13階のレストラン街へ向かった。
 なだ万茶寮を会場として、【時習26回 1-4の会】ミニミニクラス会を開催した。
 このミニミニクラス会も中嶋君の肝入りだが、会場の選定は彼から小生に任された。
 其の日小生は、3つのeventをこなした。
 第一に、クラス会の集合前に一人で名古屋ボストン美術館『パリジェンヌ』展を観て、
 第二に、中嶋君の招待で、ワグナー/楽劇『ワルキューレ』を観て、
 第三の仕上げが、【時習26回 1-4の会】ミニミニクラス会だった

  短夜に親しき友とワルキューレ!  悟空

[17]中嶋君と林さんと

[18]なだ万茶寮~先付
                  
[19]同上~お造り

[20]同上~メイン:銀鮭柚庵焼、稚鮎唐揚げ他
                  
  では、また‥〔了〕

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