2017年5月7日日曜日

【時習26回3-7の会 0651】~「松尾芭蕉『野ざらし紀行』〔最終回〕【熱田】【甲斐山中/江戸】」「04月29日:日帰り南信州・飯田の史跡と女城主の街岩村の旅「元善光寺→飯田城跡→飯田市美術博物館→桜丸御門(『赤門』)→経蔵寺 山門→飯田城址 八間門→湯多利の里 伊那華→岩村城跡→岩村城下町→佐藤一斎像『三学戒』→湯~らんど パルとよね」を巡って」

■ さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3-7の会 0651】をお送りします。
 今回は、0407日にお届けした「〔第11回〕【水口】以来、丁度一か月ぶりになる。今日は、松尾芭蕉『野ざらし紀行』の〔最終回〕をお届けする。
  【熱田】は、貞享02(1685)年四月四日(新暦0506) に【鳴海】の「下郷知足」訪ねる / 四月五日(新暦0507)【熱田】へ戻る / 四月九日(新暦0511) 再び【鳴海】へ赴く / とあるので、0506日頃配信の《会報》にてお送りする予定である、と前回〔第11回〕で予告したが、一日遅れて0507日のお届けとなった。

1684(貞享元)年 ※
【済】八月中旬(十一~廿日(新暦168492029日頃))‥・江戸深川の草庵を門人千里(ちり(=苗村氏))を伴い、東海道を上方を目指して出立。
【済】八月二十日過ぎ(新暦0930日過ぎ)‥・小夜中山を越える
【済】八月晦日(新暦1008(猶、八月は小の月につき晦日は29) ‥・伊瀬外宮を参詣
【済】九月八日(新暦1016)‥・伊賀上野着、兄半左衛門宅に滞在 ・千里の故郷、大和国竹内村千里宅を訪問、吉野山に登る
【済】九月下旬(新暦1028日~1106)‥・今須・山中を経て大垣へ‥谷木因亭に泊す
【済】十月初旬~中旬(新暦1107日~25日頃)‥・伊勢の多度権現、桑名本統寺を経て熱田へ
【済】十月下旬(新暦1125日頃~1206)‥・名古屋へ赴く、その後再び熱田へ
【済】十二月廿五日(新暦16850129)‥・伊賀上野に帰り越年

1685(貞享02)年 ※
【済】二月(初旬から中旬廿日迄(新暦0305日~0324)) 伊賀より奈良へ、二月堂の行事を拝す / 東大寺二月堂の修ニ会:二月一日~十四日
【済】二月下旬(廿一日~晦日(新暦0325日~0403)) 京都鳴滝の三井秋風の山荘に遊ぶ
【済】三月上旬(朔日~十日(新暦0404日~13) 伏見西岸寺に任口上人を訪ねる
【済】三月中旬(十一日~廿日(新暦0414日~23)) 水口の駅で服部土芳に逢い数日滞在、のち名古屋へ向かい熱田の桐葉亭へ
【今回〔最終回〕】
 四月四日(新暦0506) 鳴海の下郷知足を訪ねる
 四月五日(新暦0507) 熱田へ戻る
 四月九日(新暦0511) 再び鳴海へ赴く
 四月十日(新暦0512) 鳴海を発ち、江戸へ向かう
 四月下旬(廿一日~晦日(新暦0523日~0601)) 木曾・甲斐を経て江戸へ帰着

《原文》
 伊豆の國 蛭(ひる)が小嶋(1)の桑(=(2a))門、これも去年(こぞ)の秋より行脚(あんぎや)((2b))けるに、我が名を聞(きき)て、草の枕の道づれにもと、尾張の國まで跡をしたひ來たりければ、

來與(いざとも)に穗麥喰ハん草枕

 此(この)僧 予に告(つげ)ていはく、円覺寺(ゑんがくじ) (3)の大顚(だいてん) (4)和尚、今年陸(=)月の初(はじめ)、迁(=セン(千にしんにょう))(せんげ)(5)し玉(=)ふよし。
 まことや夢の心地せらるゝに、先(まづ) 道より其角(きかく)(6)が許(もと)へ申(まうし)(つかは)しける。

梅こひて卯花(うのはな)拝むなみだ哉

杜國(7)におくる

白げしに羽もぐ蝶の形見哉

 ニ(ふた)たび桐(とう)葉子(えふし)(8)がもとに有(あり)て、今や東(あづま)に下(くだ)らんとするに(9)

牡丹蘂(しべ)ふかく分(わけ)(いづ)る蜂の名残(なごり)

《現代語訳》
 伊豆国の蛭が小嶋の僧侶が、彼は去年の秋から行脚していたのだが、私の名を聞き、「旅のお供をさせて下さい」と、尾張国迄私を慕って付いて来たので、

【意】さあ一緒に穂麦(=青差)を喰おうヨ / 草枕(=野宿)の友として
【季語】穂麦:夏
【解説】「いざとも(來與)に」や「喰ハん」という言い方に「風狂の漂泊者」として相手を認める弾んだ心がある

この句は、浄土宗 正念寺(春日井市中町57)にある
 以下のURLの解説に拠れば、芭蕉が行脚の途次、この地、正念寺近くの農家に一宿した折りの吟であると伝えられる
 季節は旧暦四月 / 何分田舎の為 何も差し上げるものがない / 地元の人が新麦の穂で「青差(あおざし)」を作り差し出した処、芭蕉は喜び、この句を詠んだという
 http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub33-16.html ←此処をclick して下さい

 正念寺は、名鉄小牧線春日井駅から西へ2~3分の所にある

 200810月 大学弓道部時代の親友が病で亡くなるひと月前、彼の自宅のある春日井市の自宅を訪れた折、彼の家のすぐ近く、県道102号線沿いの道脇に芭蕉の石碑が建っていた


[01]正念寺の芭蕉の石碑「來與(いざとも)に穂麦喰ハん草枕」

[02]同上の石碑脇の解説
                  
 この僧が私に告げてくれたことだが、鎌倉円覚寺の大顛和尚(だいてんかしょう)が今年1月の初旬、亡くなられたという。
 本当か? まるで夢の様な心地であるが、先ず旅先から(宝井)其角の許に言い送った。

【意】梅の花咲く頃に亡くなられた大顚和尚を偲び、いま眼前に咲く卯花を拝み涙している
【季語】卯花:夏
【解説】「梅」は「脱俗気品あるもの」の象徴で、高徳の大顚和尚を指す / 「梅は、円覚寺大顚和尚遷化の時の句なり
    その人を梅に比して、爰(ここ)に卯の花拝むとの心也 / 物によりて思ふ心を明す / その物に位をとる」(「三冊子」)とある

杜国に贈る

【意】蝶が白芥子の花に止まって一時羽を休めている / その蝶が羽をちぎって飛び去れなくなる様な、旅の途上で貴方にお別れする辛さを感じている自分です
【季語】白芥子:夏
【解説】「白芥子」を杜國、「蝶」を芭蕉に擬(なぞら)え、別離の情の耐え難さを詠んだ句 /「羽もぐ」に立ち去り難い愁いを込めている

 ふたたび桐葉子のもとに泊まって、今や東に下ろうという時に、

【意】牡丹の蘂(=おしべとめしべ)深くで蜜を吸っていた蜂が花びらに這い出して空に飛んでいく
   貴方とお別れするのはそれ程辛い思いです
【季語】牡丹:夏
【解説】芭蕉自身を「蜂」に擬えたもので、熱田の定宿の主人桐葉子の厚いもてなしへの感謝を込めて詠んだ句
    「熱田皺筥(しわばこ)物語」に「牡丹蘂分て這出る蜂の名残哉」とあるのが初案か /「知足斎日々記抄」に拠れば四月九日のこととされる

《語句》
(1) 蛭が小嶋:静岡県田方郡韮山町 / 源頼朝が流謫地として知られる
(2) (a())(b())a() b() のいずれも底本で「見せ消ち」にしてある
(3) 円覺寺:鎌倉五山第2位 / 臨済宗円覚寺派の大本山
(4) 大顛(梵世)和尚:鎌倉円覚寺住職 / 美濃国出身 / 芭蕉の門弟 宝井其角 参禅の師 / 俳諧を好む / 俳号幻吁(げんあ) / 貞享02(1685)0103日没(享年57)
(5) 遷化:高僧が亡くなること
(6) 其角:宝井其角(1661-1707) / 榎本氏 / 延宝初年間芭蕉の最古参の門弟 延宝初年 1415歳で蕉門に入り随一の高弟となった / 江戸堀江町出身
(7) 杜国:坪井氏 / 名古屋の門弟 / 米商人 / 貞享02(1685)年 米の空売買に連座し家財没収の上、伊良湖崎に配流される / 元禄03(1690)年没(享年三十余年)
(8) 桐葉子:林氏 通称:七左衛門/熱田の郷士で芭蕉が定宿とした旅館の主人 / 蕉門の俳人 / 桐葉は俳号 /正徳02(1712)年没
(9) 今や東(あづま)に下(くだ)らんとするに:「知足斎日々記抄」に「(四月)十日 桃青(=芭蕉)丈江戸へ御下り」とある

《原文》
 甲斐の山中(1)に立(たち)よりて(1)

行駒(ゆくコマ)の麦に慰(なぐさ)むやどり哉

卯月の末、庵(いほり)(2)に帰りて旅のつかれをはらすほどに、

夏衣(なつごろも)いまだ虱(しらみ)をとりつくさず

《現代語訳》
 甲斐の国の山中に立ち寄って、

【意】私を乗せてくれて来た馬が、この宿で穂麦をご馳走になった
   私自身もその流寓の折には貴方のご厚情に一方ならぬお世話になった感謝の気持ちは今も決して忘れていないですヨ
【季語】麦:夏
【解説】芭蕉が数回推敲を重ね苦吟した天和03年の作品に「馬ぼくぼく我を絵に見ん夏野哉(真蹟短冊)」がある
    これは、芭蕉が世話になった高山麋塒(びじ)の国許である甲斐国 谷村に流寓(りゅうぐう)していた折詠んだ歌
    芭蕉はこの句を思い出して挨拶の句として「行駒(ゆくコマ)の麦に慰(なぐさ)むやどり哉」と詠んだ

卯月の末、深川の庵に帰ってた旅の疲れをはらしているうちに、

【意】旅から帰って来たがまだ気分が落ち着かない儘で時が過ぎていく
   旅の間着ていた夏衣を、虱も取らず着た儘で‥
【季語】夏衣:夏
【解説】「虱をとりつくさず」には、帰庵早々の落ち着かない気分に、虱のひねりつぶす姿に脱俗の高士の姿と、野ざらし紀行の諸所で遭遇した人々との思い出を振り返っている芭蕉自身を重ね合わせている。
    泊船本は「なつ衣」の後に「後へに処々酬和の句、素堂の跋あり、今畧之と注記がある
    又、濁子本には芭蕉自身に拠る次の様に奥書がある
    此一巻は必記()行の式にもあらず、たゞ山橋野店の風景、一念一動をしるすのみ
    爰(ここ)に、中川氏濁子、丹青をして其形容を補しむ / 他見可恥もの也 〔芭蕉散翁書〕

     たびねして我句を しれや秋の風

《語句》
(1) 甲斐の山中:芭蕉の帰路については、熱田から甲斐へ二説ある
    [1]木曽路を甲斐〔←通説〕/ [2]東海道→富士山麓→山中湖畔→山中へ〔勝峯晋風説〕
(2) 庵:深川の芭蕉庵帰着をいう / 波静本には「帰りて」なし

【小生補足】
  「甲斐の国の山中に立ち寄って」については、芭蕉と高山重文(1649-1718)との関係を忘れてはならない。
 天和02(1682)年 芭蕉は八百屋お七に拠る江戸の大火で芭蕉庵を焼失して以降門下の高山繁文の世話になった。
 高山繁文(1649-1718)の略歴を以下に述べる。
 繁文(しげふみ)は、江戸時代の甲斐谷村藩と武蔵川越藩の国家老 / 俳人 / 通称:高山傳右衛門 / 俳号:麋塒(びじ)
 繁文は、甲斐国 都留郡谷村(山梨県都留市)に秋元家の国家老 高山孝繁の次男として生まれる
 高山家は代々、秋元家の家老を勤めた / 熱心な日蓮宗徒
 江戸幕府老中となる谷村藩主 秋元喬知に仕え、万治03(1660)年 長兄 繁孝死去を受け家督(500)継ぎ、寛文12(1672) 24歳で家老に就任
 英明で手腕に秀で城代となり、国家老(1200)に就任
 その繁文は江戸出府の折、松尾芭蕉の門人となった
 天和021228(16830125)の八百屋お七の火事で芭蕉庵を焼失
 繁文は、危うく難を逃れた芭蕉と弟子 芳賀一晶を自国の甲斐 谷村に招いた
 芭蕉は、翌天和0305月迄甲斐 谷村で過ごした / 時に芭蕉39歳 / この経緯は其角の『枯尾華』に詳しい
 芭蕉は貞享元(1684)年秋から翌年春4月にかけて伊賀国上野へ旅行し江戸に帰着する迄の紀行文『野ざらし紀行』をしている
 芭蕉は、帰路に甲斐国から甲州街道を経て江戸へ戻る途上谷村へ立ち寄り繁文に会っている
 其処での繁文との再会を踏まえ、「行駒(ゆくコマ)の麦に慰(なぐさ)むやどり哉」以下に繋がる‥

【小生comment
 野ざらし紀行は、今回で終了である。
 次号《会報》からは、松尾芭蕉『嵯峨日記』をお届けする。
 芭蕉の『野ざらし紀行』が終わった貞享02(1685)04月から丁度6年後の元禄04(1691)0418(新暦0515)から0504(0531)迄の俳諧日記。
 芭蕉著〔1巻〕。蕉門十哲の一人である 向井去来 の落柿舎に滞在した際の日記。
 芭蕉の発句11、門人の発句14、付合2を収録。
 次号《会報》をお楽しみに!

■次の話題は、GWの初日0429()に日帰り南信州・飯田の史跡と女城主の街岩村の旅「元善光寺→飯田城跡→飯田市美術博物館→飯田市美術博物館→桜丸御門(『赤門』)→経蔵寺 山門→飯田城址 八間門→湯多利の里 伊那華→岩村城跡→岩村城下町→佐藤一斎像『三学戒』→湯~らんど パルとよね」を巡ってを来たのでその模様をお届けします。
 訪問地の中の一つ飯田市美術博物館では、企画展『創画会70年記念展』の模様についてお伝えする。見応えのあるniceな企画展覧会だった。
 以下、行程順にお伝えする。

0620分 拙宅 発→国道151号線→〔131km 2時間 55分〕
0915分 元善光寺 着〔拝観料@400円〕
[03]元善光寺 山門隣の案内看板前にて

[04]同 本堂前にて
                  
0930分 元善光寺 発→〔県道251号線 5㎞/136 10分〕
0940分 飯田市美術博物館 着
[05]飯田市美術博物館前にて

[06]同美術館入口にて
                  
0945分 『創画会 70年記念』〔入館料@500円/900円〕
[07]本展leaflet1

[08]本展leaflet2
                  
【創立会員】
[09]秋野不矩(1908-2001)『青年立像』1955

[10]上村松篁(1902-2001)『春宵』1993
                  
[11]広田多津(1904-1990)『夕華』1972

[12]福田豊四郎(1904-1970)『平原』1969
                  
[13]向井久万(1908-1986)『樹下』1958

[14]山本丘人(1900-1986)『風立ちぬ』1982
                  
【物故会員】
[15]大森運夫(1917-2016)『伊那谷の春』2015

[16]平川敏夫(1924-2006)『松巒湧雲』1985
                  
【現会員】
[17]小野定(1948- )『原星紀』2012

[18]小西通博(1955- )『夏への扉』2016
                  
[19]高畑郁子(1929- )『遺跡の人Ⅱ』1978

[20]稗田一穗(1920- )『蒼天の旅』1996
                  
[21]松倉茂比古(1949- )LA VITA(星の出る頃)2013

【小生comment
 本展は、創造美術創立から70周年を記念し、創立会員、物故会員、現会員計91名の作品に拠って当館を皮切りに8美術館にて巡回展を開催する。
 愛知県では7番目に松坂屋美術館にて20171206日~17日、最後8番目が静岡県浜松市の秋野不矩美術館にて20180120日から開催される。
 なかなかいい美術館なので、又、見に行くかもしれない。
 又、飯田城主は、戦国時代は「守護大名小笠原」「戦国大名武田」「織田」「徳川」「豊臣」と支配層が変わり、江戸時代に入ると小笠原秀政、幕府直轄、脇坂安元・安政の2代を経て、1672年堀親昌(ちかひさ/ちかまさ(1606-1673))を初代に12代明治維新迄続いた。
 因みに、堀親昌の父堀親良(1580-1637)は、親良の父 秀政(1553-90)や、同じく兄 秀治(1576-1606)と共に豊臣秀吉に仕えた。
 0408日に春日山城跡へ行った折立ち寄った上杉家の菩提寺 林泉寺 には、越後国主で福嶋城主を務めた親良の兄秀治と父秀政・祖父秀重(1532-1606)の墓がある。
 こんな処でも、越後と飯田が堀氏で繋がっている不思議な縁を感じた。

[22]飯田市美術博物館敷地内にあった盟友横山大観筆に拠る菱田春草顕彰碑の前にて
                  
[23]飯田市美術博物館の建物前にて

1040分 飯田市美術博物館 発→〔徒歩100m 5分〕
1045分 桜丸御門『赤門』着
[24]『赤門』前にて
                  
1050分 同所発→〔徒歩300m 10分〕
1055分 飯田城跡 本丸跡着
[25]飯田城跡 本丸跡の案内看板

[26]日夏耿之介記念館前にて
                  
 Virtual real な世界で拙句を一句‥

  南信路(なんしんじ) 愛しきひとと 春惜しむ  悟空

 日夏耿之介というと、白羊宮が直ぐ浮かぶ
 そして、白羊宮というと、矢張り何と言っても薄田泣菫だ
 今日、飯田城跡の本丸を見に行ったら、日夏耿之介記念館(=彼の終の住処)があることを知り嬉しくなって勿論見学!
 北原白秋、三木露風、芥川龍之介、堀口大學、室生犀星ら巨匠達と一緒に日夏耿之介(1890-1971)も写っている写真を見た
 日夏耿之介が纏めた白羊宮の詩のアンソロジー(anthologyanthologie)と言えば、何と言っても、薄田泣菫(1877-1945)の最高傑作の新体詩「ああ大和にあらましかば」だ!

      ああ大和にあらましかば        薄田泣菫

ああ、大和にしあらましかば
 今神無月
 うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を
 あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ
 斑鳩(いかるが)
 平群(へぐり)のおほ野高草の
 黄金の海とゆらゆる日
 塵居の窓のうは白み日ざしの淡(あは)
 いにし代()の珍(うづ)の御経(みきょう)の黄金(こがね)文字
 百済(くだら)緒琴に、斎(いは)ひ瓮()に、彩画(だみえ)の壁に
 見ぞ恍()くる柱がくれのたたずまひ
 常花(とこばな)かざす芸の宮、斎殿(いみどの)(ふか)
 焚きくゆる香()ぞ、さながらの八塩折(やしおおり)
 美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに
 さこそは酔()はめ(以下略)

【意】
 ああ、大和では今10
 木の葉が散りだした神々の山の森の小径を
 朝露に髪を濡らしながら
 歩いて斑鳩へ行こう
 平群の野原のすすきは黄金色の海となり
 その上に太陽がゆらゆらと揺れているだろう
 窓越しに差し込む薄い日射しの下で、古代の珍しい経典の黄金文字
 百済伝来の琴、斎檀の酒器、壁面の仏画
 柱越しで、それらの佇まいに見とれたい
 飾花の絶えない学問所や斎殿の奥深くでは
 焚き込められた薫香が、まるで瓶から流れ出る芳醇な美酒の香りの様だ
 さあ、その香りに酔おうヨ(以下略)

こう言う名詩を目の当たりにすると、愛しきひとも霞んで仕舞う

1115分 飯田市美術博物館 発→〔2.3km138.3km 10分〕
1125分 経蔵寺「山門」着
[27]同寺「山門」案内看板

[28]経蔵寺(きょうぞうじ)「山門」前にて
                  
1130分 同所発→〔1.7km140km 5分〕
1135分 旧飯田城『八間門』着
[29]同『八間門』案内看板の横にて

[30]旧飯田城『八間門』前にて
                  
1140分 同所発→〔中央自動車道 飯田IC→飯田山本IC 19㎞/159km 25分〕
1205分 昼神温泉「湯多利の里 伊那華」着〔Lunch Viking @3,390円/4,290円〕
[31]昼神温泉「湯多利の里 伊那華」入口にて

1350分 同所発→〔中央自動車道 飯田山本IC→中津川IC→国道153号線→ 51km210km 50分〕
1440分 岩村城跡 本丸駐車場着
[32]岩村城跡 本丸の高石垣
                  
[33]岩村城跡本丸の案内看板&岩村城歴代将士慰霊碑前にて

[34]岩村城跡本丸碑の前にて
                  
1505分 岩村城跡本丸 発→〔2.5km212.5km 5分〕
1510分 岩村城下町 着〔女城主/岩村醸造&カステラ/松浦軒本店〕
[35]女城主・岩村醸造前にて

1520分 同所発〔350m 2分〕
1525分 岩村歴史資料館 着
[36]佐藤一斎『三学戒』碑文
                  
[37]佐藤一斎像と『三学戒』碑文前にて


   三学戒   佐藤一斎
 
 少にして学べば、則ち壮にして為すことあり
 壮にして学べば、則ち老いて衰えず
 老いて学べば、則ち死して朽ちず

1530分 同所発→〔一般道 50km262.5km 1時間10分〕
1640分「湯~らんどパルとよね」着〔温泉&夕食〕
[38]「湯~らんどパルとよね」正面玄関前にて
                  
1820分 同所発→〔一般道→三遠南信道路→東名 豊川IC 82.5km345 1時間30分〕
1950分 拙宅着〔了〕

【小生comment
 岩村歴史資料館を出て、豊根村の「湯~らんどパルとよね」へ向かう1時間10分は春雷と豪雨で一寸怖かった。
 小生、自分で言うのも気恥ずかしいが、「晴男」の面目躍如で、パルとよねの駐車場に打擲した途端、雨がカラッと止んだ。
2つの温泉」「1つの美術館」「2つの城跡」「1つの寺院」その他「数か所の史跡」を巡った楽しい日帰りdriveだった。

【後記】今回は、飯田市出身の日」本画家の巨匠 菱田春草(1874-1911)について、彼の生涯を彼の作品と共にご紹介して締め括りとしたい。
 菱田春草の略歴は以下の通りである。

1874(明治07) 0921日 旧飯田藩士 菱田鉛治(えんじ)の三男として飯田城下の仲之町に生まれた / 本名は 三男治(みおじ)
1880(明治13年 飯田学校(現 飯田市立追手町小学校)入学
       学業は上位で絵画も高等科時代から得意で画才を当時飯田小学校で図画・数学の教師だった中村不折(1866-1943)に認められる
1889(明治22)02月 東京・上野に岡倉天心(1862-1913)を中心に東京美術学校(現 東京芸術大学)が開校
       日本画科教授に狩野派:橋本雅邦(1835-1908)、円山四条派:川端玉章(1842-1913)等が就任
          1期生:横山大観(1868-1958)、下村観山(1873-1930)、西郷孤月(こげつ(1873-1912))

09月 上京して日本画家・結城正明(1840-1904)のもとで学ぶ

1890(明治23) 09月 春草は東京美術学校へ第2期生として入学
[39]菱田春草『牧童』1893

1894(明治27)年 校内展覧会に『鎌倉時代闘牛図』で賞牌第二席を受賞し、校長の岡倉天心に認められる
1895(明治28)年 卒業制作『寡婦と孤児』で最優等となる
1896(明治29)年 日本絵画協会 第1回絵画共進会で『四季山水』が銅牌を受賞 / 春草は東京美術学校予備課程の授業を校長の天心から任される
1897(明治30)年 日本絵画協会 第2回絵画共進会で『拈華微笑(ねんげみしょう)』が銀牌、第3回で『水鏡』が銅牌、と受賞を重ねていく
1898(明治31)年 春草が師と仰ぐ岡倉天心が東京美術学校 校長職を追われことに伴い(「美術学校騒動」)、春草も同校を依願免官
         在野に降った春草は、雅邦・大観・観山・孤月らと共に「日本美術院」を谷中大泉寺にて結成し、新しい日本画の絵画技法「没線主彩」を研究
        この技法は、筆線を廃して(没線)色彩の広がりに拠り(主採)絵を描くもので
1900(明治33)年 第8回共進会に『菊慈童』
[40]同『菊慈童』1900
                  
1901(明治34)年 第10回共進会に『蘇李訣別』
1902(明治35)年 第12回共進会に『王昭君』と続けてこの新しい技法の追求を行ったが、輪郭線のない曖昧な画風だとして『朦朧体』『縹渺体』と厳しい名が付けられた
1903(明治36)年 共に朦朧体の研究を行っていた横山大観とインドへ遊学
[41]同『鹿』1903

1904(明治37)年 岡倉天心、横山大観と共に渡米
[42]同『夕の森』1904
                  
1905(明治38)年 更に渡欧し、春草は東洋美術の源泉と西洋美術の現状を学んだ
[43]同『花あやめ』1905

1906(明治39)年 帰国すると「日本美術院」は財政難で事実上破綻しており、都落ちの恰好で茨城県五浦(いづうら)へ移転
        春草は、大観・観山・木村武山(1876-1942)と共に五浦へ移住
[44]同『帰樵』1906
                  
1907(明治40)年 開設したばかりの第1回文部省美術展覧会(『文展』)に、点描風技法の『賢首(けんじゅ)菩薩』で二等賞第三席を受賞
        この頃春草は、眼病を患い、代々木に戻る
1909(明治42)年 制作を再開 / 朦朧体の技法を脱し、装飾性と写実性を融和させた琳派的な画風へと発展していく
        第3回文展で『落葉』が最高賞の二等賞第一席を受賞

1910(明治43)年 第4回文展では審査員として『黒き猫』を発表し、高い評価を受ける
[45]同『春秋(楓に鳩)1910

[46]菱田春草像 1910
                  
1911(明治44) 02月 眼病が再発し失明 / 0916日 慢性腎不全に拠る欝血性心不全で死去

【小生comment
 春草の作品は、時代の変遷と共に画風は確かに変化しているが、精緻で品格ある点は一貫している。
 横山大観は、6歳年少の春草と大変仲が良かったことが、春草の略歴から実感出来る
 今回 南信州・飯田の史跡巡りの中で、飯田市美術博物館『創画会70年記念展』を、飯田城跡・二の丸跡地に建っていることがdoubleで嬉しかった。
 それに加えて、菱田春草が飯田市の出身で、彼の生涯の概略をこの飯田市美術博物館で確りと勉強出来たのは嬉しかった。

【前書】飯田城跡、飯田市美術博物館、菱田春草が織り成す「歴史と文化」が、南信州と三河を繋ぐ

  春草や 三河と南信 織り成す縁  悟空

 では、また‥〔了〕

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