2017年6月24日土曜日

【時習26回3−7の会 0658】〜「松尾芭蕉『幻住庵記』〔第4回〕【小竹生が嶽・千丈が峰・袴腰といふ山あり】」「06月16日:ホテルグランコート名古屋『伊藤元重講演会/日本経済の展望と今後の企業経営』」「同左:古川美術館『山本眞輔/彫刻60年の軌跡』展」「同左:松坂屋美術館『近現代 日本絵画』展」「06月17日:愛知県芸術劇場 大hall /Palermo マッシモ劇場/Puccini作曲:歌劇『トスカ』」「06月18日:ライフポートとよはし『豊橋交響楽団 第120回記念定期演奏会』を聴いて」


■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0658】をお送りします。
 先ず最初にお届けするのは、前々々号に開始した『幻住庵記』の今日はその〔第4〕をお届けする。
 ご参考に、今回も従前からの繰り返しになるが、『野ざらし紀行』〜『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日『嵯峨日記』を執筆した落柿舎へ。
『野ざらし紀行』から『嵯峨日記』迄の6年間の歳月は、芭蕉の人生に於いても最も脂が乗った時代だった。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『幻住庵記』等の名作を生みだしている。
『幻住庵記』は、『嵯峨日記』からこれも丁度一年前の元禄三(1690)年四月六日から七月二十三日迄、膳所本多藩士 菅沼定常(曲水、のち曲翠)から借り受けた山荘での模様を記したもの。
 猶、『幻住庵記』の最後は、有名な句「先づたのむ椎の木もあり夏木立」で締め括り、「元禄三仲秋日」と記してあることから、八月下旬に脱稿したことを示している。
 以下に、『野ざらし紀行』を終え『嵯峨日記』の落柿舎へ行く迄の一連の芭蕉の動きを時系列的にごく簡単にご紹介する‥
 
貞享02(1685)年 12月 (42歳)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686)年 01月 (43歳) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行
                「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687)年 01月 (44歳) 幕府「生類憐みの令」発布
         08月25日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』成る
         10月25日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
         11月12日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ
               「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬  伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688)年 04月08日 (45歳) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す
               「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         04月20日 須磨・明石を廻って須磨に泊す 明石夜泊
               「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
               ‥『笈の小文』は此処で終わる
         08月11日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         08月15日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」
         08月16日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着
         09月30日 元禄に改元
元禄02(1689)年 03月27日 (46歳) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発
              千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
         05月13日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
         05月27日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
         06月03日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
         06月16日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
         07月12日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
         07月25日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
         09月06日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わる
              「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
         09月13日 伊勢神宮内宮参拝
         09月22日 伊賀上野へ帰郷
         11月22日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
         秋〜冬:この頃【不易流行】を説く
         12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690)年 (47歳) 01月03日 膳所から伊賀上野へ帰郷
         03月中旬迄 伊賀上野に滞在
         04月01日 石山寺 参詣
     【 ☆ 04月06日 愛弟子の杜国死去(03月20日)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆ 】
     【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
      【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 / 06月19日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
      【 ☆ 07月23日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
      【 ☆ 08月15日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
      【 ★★★ 〔 08月下旬『幻住庵の記』脱稿 〕★★★ 】
         09月27日 一泊二日でへ、そして伊賀上野へ発つ / 11月上旬 伊賀上野から京都へ
         12月23日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691)年 (48歳) 01月06日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕
         03月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
         03月末 奈良から大津へ移動
         04月18日〜05月04日迄 京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごし『嵯峨日記』執筆開始

【幻住庵記】
《原文》
 小竹生が嶽(さゝほがたけ)(注1)・千丈が峰(注2)・袴腰(注3)といふ山あり。
 黒津の里(注4)はいとくろう茂りて、網代守(も)るにぞ」と詠みけん『萬葉集』の姿(注5)なりけり。
 猶眺望(てうばう)くまなからん(注6)と、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座(えんざ)を敷きて、猿の腰掛と名付く。
 彼(か)の海棠に巣を営(いとな)び、主簿峰(しゅぼほう)に庵を結べる王翁(おうをう)・徐栓(じょせん)が徒にはあらず(注7)。
 ただ睡癖(すいへき)山民(注8)と成って、孱顔(さんがん)(注9)に足を投げ出(い)だし、空山(注10)に虱を捫(ひねつ)て坐す。
 たま/\心まめなる時(注11)は、谷の清水を汲みて自(みづか)ら炊(かし)ぐ(注12)。
 とくとくの雫(しずく)を侘びて(注13)、一爐(いちろ)の備へいとかろし。
 はた、昔住みけん(注14)人の、殊(こと)に心高く住みなし侍(はべ)りて、たくみ置ける物ずきもなし(注15)。
 持仏一間を隔てて(注16)、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。

《現代語訳》
 (周りには)竹生(ささほ)が嶽(たけ)・千丈が峰・袴腰という山がある。
 黒津の里は黒々と草木が繁茂していて、「田上の黒津の庄の痩男は網代を守っているから(肌の色が黒いのだ)」と『萬葉集』に詠まれている、その姿である。
 もっと景色を隈なく見てやろうと、後ろの峰に登って、松の枝に人が座れる棚を作り、其処に円座(=丸い座布団)を敷き、猿の腰掛と名づけた。
 (しかし、私は北宋の詩人黄庭堅の詩「潜峯閣に題す」で述べられている) 海棠に巣を営み、主簿峰に庵を結んだ王道人・徐佺(=人偏に全)の類ではない。
 ただ寝てばかりいる怠けた田舎者となって、険しい山の斜面に足を投げ出し、人気の無い山で虱を捻(ひね)り乍ら座っている。
 偶(たま)に気が向いた時には、谷の清水を汲んで自炊する。
 (あの西行法師が吉野の山中に結んだ庵の傍に湧く)とくとくの清水の侘び住まいさ乍らに、(幻住庵の)炊事場の有様はとても簡素なものだ。
 又、その昔此処に住んでいた人(=菅沼曲水の伯父 菅沼定知)が、大変心気高く住まわれていて、手の込んだ趣向も施されていない。
 一間隔てた所に仏間があり、寝具を納める所等が一寸設(しつら)え(=設け整え)てある。

《語句》
(注1) 小竹生が嶽:笹間が岳 / 田上山の南 / 幻住庵の東
(注2) 千丈が峰:幻住庵の西南にある山
(注3) 袴腰:幻住庵の南にある山 / 小竹生が嶽・千丈が峰・袴腰の山々は幻住庵から見ることが出来る
(注4) 黒津の里:大津市田上 / 幻住庵の東南に位置する
(注5)「網代守るにぞ」と詠みけん『萬葉集』の姿:『萬葉集』ではなく『近江與地志略』に古歌としてある
   「田上(たなかみ)や黒津の庄の痩男(やせをとこ)あじろ※1守(も)るとて色の黒さよ」
   ※1「網代(あじろ)」:川の瀬に竹や木で編んだものを網を引く形にして、その端に簀(す)※2を当てて魚を捕るための仕掛け
   ※2 簀(す):篠竹・葦・割竹で粗く編んだ筵(むしろ)
(注6) 猶眺望(ちょうぼう)くま(=隈)なからん:もっと景色を隈無く(=隅々迄)見よう
(注7) 主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず:黄庭堅(黄山谷)の詩『山谷(さんこく)集』「潜峯閣に題す」による /
    「徐老は海棠の巣の上、王翁は主簿峰の庵」に「「徐佺は道を楽しみ薬肆中に隠る、家に海棠数株あり、巣を其の上に結び、時に客と其の間に飲む /
   又王道人は四方に参禅し、帰りて屋を主簿峰上に結ぶ / 嘗て毛人あり、其の間に至りて道を問ふ」とある
   ※ 黄庭堅(1045-1105)は中国北宋の詩人・書家で、23歳で進士 / 北京の国子監教授となり蘇軾と親交を結ぶ /
党争に巻き込まれ浮沈の多い官僚生活を送り、左遷先の宜州で没 /
   蘇軾(1036-1101)の門下として「蘇門四学士」、又、師の蘇軾から友人として遇され、共に「蘇黄」と並称された /
   古人の詩句や詩境を借り活用する技法や、禅語を駆使し技巧を凝らした難解な句も少なくない /
   「蘇・黄」に王安石が北宋を代表する文人とされる /
   黄庭堅の詩風を宗とする北宋・南宋時代の詩壇の一派を彼の出身地に因んで「江西詩派」と呼ばれた /
   書家としては、蘇軾、米芾(べいふつ(1051-1107))、蔡襄(さいじょう(1012-67))と共に「宋の四大家」に数えられる
(注8) 睡癖山民:寝てばかりいる怠惰な田舎者
(注9) 孱顔:険しい山の斜面
(注10) 空山:人気の無い山
(注11) 心まめなる時:気が向いた時
(注12) 炊ぐ:炊事をする
(注13) とくとくの雫を侘びて:庵のそばにある「とくとくの清水」/ 吉野山の西行庵傍にある「とくとくの清水」の侘びしい住居の境地を慕って
(注14) 昔住みけん人:菅沼曲水の伯父菅沼定知
(注15) たくみ置ける物ずきもなし:手の込んだ趣向も無い
(注16) 持仏一間を隔てて:仏間は離れに一室ある

【小生comment】
 芭蕉がこの幻住庵を大変気に入っている様子が、今回のphraseからも確り読み取れる。
 芭蕉の喜ぶ様子を垣間見ると、小生も久しぶりに訪れて見たくなって来た。

■さて次の話題は、06月16日(金) 名古屋へ行き、ホテルグランコート名古屋にて開催された『伊藤元重講演会/日本経済の展望と今後の企業経営』を聴いて来たので、その概要をお伝えする。
 講演内容を筆記したものを以下に記すが、一部聞き取り難かった処は推察して記した為、内容に不正確さがあること、飽く迄参考程度のものであることをご承知置き頂きたい。〔為念〕

※ 日本の名目GDPは1997年MAX530兆円から2012年には▲80兆円迄減り続けた ←・これは生産性は若干上昇したが、物価と賃金が下落したから
※ 恐らく「アベノミクス(2014→2017年)」がなければ日本経済は破綻していただろう →・名目GDPは、2016年に過去最高年の1997年の水準に戻った
※ 日経平均株価も2012年の8,800円→2017年06月16日現在、2万円の大台直前に迄上昇〔←・筆者注:06月19日13時30分現在:20,065円と2万円の大台に乗る〕
※ 2016年夏頃から欧米先進国の景気は好調に、中国経済も持ち直している(←・但し、中国の場合、不良債権は増え続けているが‥)
※ フィリピンは、ドゥテルテ大統領に拠る麻薬撲滅への強権発動〔麻薬犯5,000人殺害、麻薬犯投降者120万人を留置拘禁〕が奏功し、犯罪が激減している
※ 原油価格を中心に資源価格が下落 →・新興諸国や資源国の景気が後退する一方、欧米先進諸国の景気が好転、米国はトランプ効果〔←・法人税減税他〕で経済が続伸
※ 本日お話したいことは、【1. 財政】【2. 労働市場】【3. 企業のおカネ(=手元流動性)】の3点
【1.財政】
 ・日本政府の借金は1,000兆円あるが、0.9%という超低金利の恩恵を受けている
  年間の支払利息は9兆円、足元2017年の日本の対GDP比基礎的財政収支は3%台に縮小
 ・米欧の主要先進国と比較しても、日本の財政赤字は少ない水準になっている
  ←・日本の場合、景気回復により税収が増え、プライマリーバランスも3%に迄縮小
【2. 労働市場】
 ・企業経営者にとって重要なのは「労働市場」の問題である
 ・労働市場は、来年以降現状よりもっと厳しい状況になっていると予想される
 ・確かに、日本の労働者市場は、女性の就労者数の増加が顕著で、シニア層の就労者数共に増えている
 ・政府は、就労者の流動化と賃金上昇に注力   →・解雇規制緩和する一方、就労者の賃金上昇を目指す
   ←・アベノミクスのGDP2% up 実現には賃上げ3%が必要
 ・企業経営者側からすれば、賃金は抑制したい
   →・ex. 東京山手線沿線のコンビニのアルバイト時給1,500円でも集まらない
   →・中国・東南アジアの研修生募集へ
 ・安倍内閣は、最低賃金を上げた →・今秋以降、賃金上昇するか要注目
   →・同一労働同一賃金を目指す
 ・このことは、労働賃金抑制に拠る企業収益確保した時代の終焉を意味する
  →・この3%賃料 up を達成しつつ企業は生き残っていく為に、企業収益力も3%以上 up が必要
 ・これは、企業経営者にとっては結構辛い経営課題となる →・でも、その解決策はある
 ・日本は、過剰サービス →・これを変えることは可能
   →・ex. SS(ガソリンスタンド)やデパートのサービス
 ・労働生産性向上策の具体策として、
 ・ex. 宅配便を中心とする物流は工夫により大幅改善余地がある
   →・ウーバー(Uber)、シェアリング、デリバリーを工夫活用する
 ・ex. レストランがウーバーに登録するだけで、配達車は主婦のアルバイトが担当する
   →・人手不足を上手く解消することで新たなビジネスモデル構築出来る時代が到来
 ・ex. 調剤薬局向け音声認識薬歴作成支援システム
   →・薬剤師が問診する間に薬歴資料を(=音声入力等に拠り)自動作成し、費用の大幅削減を実現
 ・ex. 色々な知りたいノウハウをInternetで検索すると、知りたいジャンルの回答者を紹介される
   →・自社社員だけを使って仕事する時代の終焉 →・兼職を奨励
 ・ex. 兼職を奨励 →・クラウドを使って新しい労働者を調達する
【3. 企業のおカネ(=手元流動性)】
 ・日本の企業は手元流動性の有効活用が今後最大のポイント!
   →・この手許資金が動かなかったので是迄の日本経済は停滞していたのである
 ・経済産業省の新産業構造部会が、この程370頁に及ぶ報告書を纏めた
   →・最近見た一番良い AI&IOTに関する報告書だ
 ・本報告書は、大企業よりもむしろ中小企業に有利なヒントが盛り沢山書かれている
 ・日本のこれから遣って来る本格的な人口減少社会を踏まえ近未来を考えると、進むべき先が自ずと絞られて来る
 ・2050年の近未来社会を展望すると
   →・CO2は現在比80%削減された社会になっている →・車は全て、EVか燃料電池車
   →・AIは大躍進している ←・AIは現在自己学習を凄い進度でレベルアップを遂げつつある
   →・AIの目まぐるしい進歩・進化で、通常の頭脳労働者の仕事はかなりAIに取って代わる
   →・語学の翻訳の精度も現在凄いスピードで進んでいる
   →・通常の通訳が不要な時代の到来を予見
 ・IOTは、グーグルの先をいく「プリファード・ネットワークス」が台頭しつつある
   ←・「プリファード‥」とは機械同士が賢く繋がる世界で、人間以上に複雑なタスクをこなす
 ・AIやIOTの進歩は、各段に速まっており、情報処理能力が日々増大している
 ・フィンテック(Fintech)も、AIとIOTの活用で金融領域が大変貌を遂げている
 ・情報の進化により、流通業界も激変!
   →・サブスクリプション・サービス(subscription service)により今後のビジネスモデルそのものが大変貌する可能性が大きい
   →・サブスクリプション・サービスとは、提供する商品やサービスの「数」ではなく、「利用期間に応じて対価を支払うこと」で、多くの場合、「定額制」と同義で用いられる

[01]本講演会leaflet


【小生comment】
 情報処理の急速が進歩が、PC上の世界での話ではなく、物流をはじめと実世界、延いては我々の日常世界をも大きく変えつつある。
 日々情報収集に努め、時代に即応できるノウハウの蓄積と体制構築の必要性を感じた。

■続いては、講演会の後、古川美術館『山本眞輔/彫刻60年の軌跡』展を見て来たので、その模様についてお伝えする。
 本展について、図録に掲載されていた古川美術館学芸員 小柳津綾子著「山本眞輔 彫刻60年の軌跡」から引用してご紹介する。

※ 彫刻は美しくなければならない。人生は楽しくなければならない。私の信条である。 
  「美」は「愛」と同じ様に、その存在は誰でも知っている。
 あることは確実だけれど目には見えない。
 この「目」には見えないものを目に見える「かたち」に置き換えることが彫刻家の仕事でる。 
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥―― 山本眞輔

 街角で出会う山本眞輔の女性彫像は美しい。
 日本彫刻界を代表する山本の彫刻は、駅や公園、百貨店等200を超えるpublic spaceに設置されている。
 名古屋の街中でも、名古屋駅、市政資料館、地下鉄入口、愛知県立図書館、大学、公園等、慣れ親しんだ場所でよく出逢う。
 そして、その清らかな女性像は人生を謳歌する様に輝き、自然と共鳴し合い希望ややすらぎを人々の心に届けている。〔後略〕

《略歴》
1939(昭和14)年 01月08日 愛知県幡豆郡一色町(現西尾市一色町)に生まれる
1954(昭和29)年 (15歳) 愛知県立西尾高校普通科入学
1957(昭和32)年 (18歳) 同校卒業、愛知学芸大学美術科入学〔‥担当教官から「彫刻家」の素質を認められ、同大学中退〕
1958(昭和33)年 (19歳) 東京教育大学(現筑波大学)教育学部芸術学科彫塑専攻入学
1962(昭和37)年 (23歳) 同大学教育学専攻科(筑波大学大学院)彫塑専攻進学
1963(昭和38)年 (24歳) 同専攻科終了 / 名古屋市立保育短期大学奉職(1968年助教授/76年教授~95年迄)
1966(昭和41)年 (27歳) 日本彫塑会(現日本彫刻会)会員推挙
1968(昭和43)年 (29歳) 近藤澄江と結婚 / 伊政府給費留学生としてローマ美術学校彫刻科に留学(1969年迄)
1972(昭和47)年 (33歳) 改組第4回日展にて「生きがい」特選受賞
1980(昭和55)年 (41歳) 同第12回日展にて「ひたむき」特選受賞
1984(昭和59)年 (45歳) 文部省派遣在外研究員として伊留学(1985年迄)
1985(昭和60)年 (46歳) 日彫展審査員(以後8回選任) / 日展審査員(以後8回選任)
1986(昭和61)年 (47歳) 日展会員就任
1996(平成08)年 (57歳) 日展評議員就任 / 名古屋市立大学芸術工学部教授就任
1999(平成11)年 (60歳) 第31回日展にて「森からの声」(添付写真[04])が内閣総理大臣賞受賞
2002(平成14)年 (63歳) 名古屋市立大学芸術工学部大学院芸術工学研究科教授就任
2004(平成16)年 (65歳) 同大学名誉教授就任 / 第35回日展出品作「生生流転」が第60日本藝術院賞受賞 / 日展理事・日彫刻会理事就任
2008(平成20)年 (69歳) 日本藝術院会員就任
2014(平成26)年 (75歳) 日本彫刻会理事長就任

[02]古川美術館入口
                  
[03]本展leaflet/写真の彫像は、山本眞輔『心の旅―まほろばへの道―』2010年

[04]山本眞輔『森からの声』1999年
                  
[05]同『祈り 細川ガラシャ夫人像』2013年

[06]同『旅立ちの勢至丸さま』2008年
                  
[07]同『心の旅―祈りの道―』2006年

[08]同『心の旅―アジャンタI―』2005年
                  
[09]同『タオルミーナ』2006年

[10]同『心の旅―メテオラの祈り―』2009年
                  
[11]同『心の旅―ポルトの丘―』20年


【小生comment】
 「彫刻は美しくなければならない。人生は楽しくなければならない。私の信条である」という山本氏の信条は、小生、全く同感である。
 山本氏の清楚な女性の彫像を眺めていると個々の底から癒される。
 そして、嘗て佐川美術館で見た佐藤忠良の女性像が頭に浮かんだ。
 ご覧になってどの様な感想を持たれましたか?

■続いて訪れたのは、松坂屋美術館。其処で企画展『近現代 日本絵画』展を見た。
 本展は、松坂屋美術館独自の企画展で、開催の趣旨の『ごあいさつ』から引用してご紹介する。

 当館では「近現代 日本絵画展 ~明治から受け継がれてきたもの、未来へ受け継いでいくもの~」を開催する。
 日本の近代の美術は、西欧からの美術を積極的に受け入れ乍ら、一方では、今迄の日本独自の美術を守りつつ更に新たな地平を拓こうとする二つの潮流が交差し乍ら独自の発展を遂げて来た。
 それが今日迄日常的に使われている「洋画」「日本画」という二つのgenreの成り立ちにも深く関係している。
 本展は、日本画からは、橋本雅邦、上村松園、片岡球子、東山魁夷、加山又造、平山郁夫らを、洋画は、岡田三郎助、梅原龍三郎、安井曾太郎、小磯良平、森本草介など、近現代美術史を華麗に彩った作家たちと、今日の俊英作家に拠る秀作60余点に拠り、日本美術の近現代そして未来を展望する。〔後略〕

[12]本展leaflet
                  
【日本画】
[13]堅山南風(1887-1980)『桃と冬瓜』制作年不詳

[14]小倉遊亀(1895-2000)『牡丹』1971年
                  
[15]平山郁夫(1930-2009)『唐招提寺の夜』制作年不詳

【洋画】
[16]浅井忠(1856-1907)『農夫帰路』1887年
                  
[17]梅原龍三郎(1888-1986)『軽井沢秋景』1974年

[18]岸田劉生(1891-1929)『椿花図』1922年
                  
[19]林武(1896-1975)『薔薇』制作年不詳

[20]小磯良平(1903-1988)『踊り子』1937年
                  
[21]森本草介(1937-2015)『布を纏う裸婦』1991年

[22]山本大貴(1982- )『離岸の唄』2015年
                  

【小生comment】
 本展は、日本の洋画・日本画の泰斗に拠る選りすぐりの傑作選なので、ご紹介したいものばかりであった。
 絵画や美しいモノが好きな方には必見の企画展である。
 07月09日(日)迄開催しているので、是非覗いてみて下さい。
 きっと満足されると思います。

■続いてお伝えするのは、06月17日(土)に愛知県芸術劇場 大hall にて17時00分に開演された、Palermo マッシモ劇場の演奏に拠るPuccini作曲:歌劇『トスカ』についてである。
 本演奏会は、本展leafletで紹介されていた通りの、名キャスト・名演出に拠る最高の『トスカ』であった。
 以下、引用してご紹介する。

 パレルモ・マッシモ劇場(Teatro Massimo di Palermo)は、1897年Verdiの「ファルスタッフ」でこけら落としが行われた、イタリア最大の規模を誇る歌劇場。
 2007年に初来日、シチリアゆかりの演目を上演して好評を博し、今回が10年ぶり2度目の来日となる。
 現代、屈指のトスカ歌いのチェドリンスを含め、一流歌劇場で大活躍中の主役人に拠る理想のcastingで贈るPucciniの最高傑作!〔中略〕
 Title role(主役)のチェドリンスは、1996年にパヴァロッティ国際コンクール優勝後、彼との競演でトスカを歌い、その後多くのrepertoryで、輝かしいcareerを積み上げて来た。〔中略〕
 現在、当代きってのトスカ歌いとして名を上げている。
 相手役のジョルダーニも、此処数年MET、Wien、Bayern両歌劇場等で、押しも押されぬカヴァラドッシ役として活躍を続けている。

[23]本展leaflet

[24]愛知県芸術劇場大ホール入口にて
                  
[25]同hallロビーにて

[26]トスカ役:フィオレンツァ・チェドリンス
                  
[27]カヴァラドッシ役:マルチェッロ・ジョルダーニ


【小生comment】
 いや~っ、本当に素晴らしい感動的な歌劇「トスカ」だった。
 現在、世界最高の「トスカ」と言われるチェドリンスは、本当に打って付け役で、彼女が歌うトスカのアリア「歌に生き、恋に生き」は痺れる程素晴らしかった。
 カヴァラドッシのアリア「星は煌き」も「もう最高!」。
 Pucciniの有名なアリアの中でも「ラボエーム」の2曲と共に、最高傑作の2曲である、と小生は思っている。

■今日最後にお届けするのは、翌06月18日(日) ライフポートとよはしにて14時00分より開演された『豊橋交響楽団 第120回記念定期演奏会』を聴いたことについてである。
 06月18日(日) 14時00分からの開演で、曲目は以下の3曲。

1. ジョセフ=モ(ー)リス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel (1875-1937)):ラ・ヴァルス
2. ジャック・イベール(Jacques F. A. bert (1890-1962)):フルート協奏曲
3. エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz (1803-69)):幻想交響曲

[28]本展leaflet
                  

【小生comment】
 小生、急に野暮用が入り、3曲目のベルリオーズの幻想交響曲が聴けなかったのが残念だった。
 清水信貴氏のflute独奏に拠るイベールの協奏曲は、煌びやかな名曲で素晴らしかった。
 いつもこのconcertの件でお世話になっている、安形君(【時習26回 3-1】&【1-4】のclassmate)は、豊響の金管楽器のsection leaderで、hornのpart leaderで活躍中である。
 最初に演奏されたRavel のラ・ヴァルスを元気に演奏している彼の姿を見ることが出来たが、好きな楽器を思いっきり演奏出来る彼は素敵だと思う。
 楽器を上手く演奏できない小生は、聴く方に専念しようと思う。(笑)

【後記】06月17日(土)の歌劇『トスカ』は、17時00分に開演、2回の休憩を含め20時00分終演だった。
 その日は、銀行時代の朋友佐藤君とoperaが一緒だったので、帰りに名駅のうまいもん通りで一献傾けた。
 同じ『トスカ』を、東京では天下のprima donnaのアンジェラ・ゲオルギューが歌ったが、殊に「トスカ」に限ればチェドリンスに軍配が上がる、と二人の意見が一致した。

[29]Operaの後、旧行時代の同期で朋友の佐藤君と


  短夜に カヴァラドッシとトスカの愛 悟空

 では、また‥〔了〕

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2017年6月18日日曜日

【時習26回3−7の会 0657】〜「松尾芭蕉『幻住庵記』〔第3回〕【さすがに春の名残も遠からず‥魂、呉楚東南に走り、身は瀟湘洞庭に立つ】」「06月11日:名古屋ボストン美術館『パリジェンヌ展』を見て」「06月11日:愛知県芸術劇場concert hall /R. Wagner作曲:楽劇『ワルキューレ』を見て」

■皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。今日も【時習26回3−7の会 0657】をお送りします。
 先ず最初にお届けするのは、前々号に開始した『幻住庵記』の今日はその〔第3回〕をお届けする。
 ご参考に、今回も従前からの繰り返しになるが、『野ざらし紀行』〜『嵯峨日記』に至る迄の経緯を以下に記す。
 松尾芭蕉は、貞享02(1685)年四月下旬に『野ざらし紀行』を終え、江戸に帰着した時から元禄04(1691)年四月十八日『嵯峨日記』を執筆した落柿舎へ。
  『野ざらし紀行』から『嵯峨日記』迄の6年間の歳月は、芭蕉の人生に於いても最も脂が乗った時代だった。
 この間6年の芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『幻住庵記』等の名作を生みだしている。
  『幻住庵記』は、『嵯峨日記』からこれも丁度一年前の元禄三(1690)年四月六日から七月二十三日迄、膳所本多藩士 菅沼定常(曲水、のち曲翠)から借り受けた山荘での模様を記したもの。
 猶、『幻住庵記』の最後は、有名な句「先づたのむ椎の木もあり夏木立」で締め括り、「元禄三仲秋日」と記してあることから、八月下旬に脱稿したことを示している。
 以下に、『野ざらし紀行』を終え『嵯峨日記』の落柿舎へ行く迄の一連の芭蕉の動きを時系列的にごく簡単にご紹介すると‥

貞享02(1685) 12 (42)『野ざらし紀行』刊
貞享03(1686) 01 (43) 芭蕉庵にて 蛙の句二十番句合『蛙合』を興行
             「古池や蛙飛びこむ水の音」
貞享04(1687) 01 (44) 幕府「生類憐みの令」発布
         0825日 芭蕉、曾良・宗波を伴い『鹿島詣』成る
         1025日 芭蕉、『笈の小文』の旅に出発
         1112日 杜国・越人を伴い伊良子崎に遊ぶ
             「鷹一つ見付(つけ)てうれしいらご崎」
         12月下旬  伊賀上野に到着し越年
貞享05(1688) 0408 (45) 奈良・唐招提寺にて鑑真和上像を拝す
             「若葉して御めの雫(しづく)ぬぐはヾや」
         0420日 須磨・明石を廻って須磨に泊す
             明石夜泊「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
             ‥『笈の小文』は此処で終わる
         0811日 芭蕉、越人を伴い美濃国を発ち、「更科の名月」を見に赴く
         0815日 姨捨山(をばすてやま)「俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友」
         0816日 善光寺に参拝
         08月下旬 江戸帰着
         0930日 元禄に改元
元禄02(1689) 0327(46) 芭蕉、曾良を伴い『奥の細道』の旅に出発
            千住「行春や鳥啼魚の目は泪」
        0513日 平泉「夏草や兵どもが夢の跡」
        0527日 立石寺「閑さや岩にしみ入蝉の声」
        0603日 最上川「五月雨をあつめて早し最上川」
        0616日 象潟「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
        0712日 市振「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」
        0725日 小松・太田(ただ)神社「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」
        0906日 大垣・芭蕉、伊勢神宮遷宮式参拝の為 如行宅を出発し『奥の細道』終わ
            「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行く秋ぞ」
        0913日 伊勢神宮内宮参拝
0922日 伊賀上野へ帰郷
        1122日 服部土方の蓑虫庵にて伊賀門人九人吟五十韻俳諧
        秋〜冬:この頃【不易流行】を説く
        12月末 京都から膳所義仲寺へ / 同寺にて越年
元禄03(1690) (47) 0103日 膳所から伊賀上野へ帰郷
        03月中旬迄 伊賀上野に滞在
        0401日 石山寺 参詣
       【 ☆ 0406日 愛弟子の杜国死去(0320)の訃報を近江国・国分山「幻住庵」にて受け取る ☆☆ 】
      【 ★★★ この頃より『幻住庵の記』執筆開始 ★★★ 】
      【 ☆ 06月上旬「幻住庵」から京都へ『猿蓑』を企画し18日迄滞在 / 0619日「幻住庵」へ帰着 ☆ 】
      【 ☆ 0723日 大津へ移転 / その後、09月下旬迄 膳所「義仲寺」に滞在 ☆ 】
      【 ☆ 0815日 膳所 義仲寺にて近江門人と「月見の会」を催す ☆ 】
      【 ★★★ 〔 08月下旬『幻住庵の記』脱稿 〕★★★ 】
        0927日 一泊二日でへ、そして伊賀上野へ発つ / 11月上旬 伊賀上野から京都へ
        1223日 京都から大津へ、そして「義仲寺」にて越年
元禄04(1691) (48) 0106日 大津より伊賀上野へ〔伊賀上野に3か月滞在〕
        3月下旬 伊賀上野から奈良へ〔曾良に再会?〕
        03月末 奈良から大津へ移動
        0418日〜0504日迄 京都西嵯峨の「落柿舎」で過ごし『嵯峨日記』執筆開始

【幻住庵記】

《原文》

 さすがに(1)春の名残も遠からず、躑躅(つつじ)咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥(ほととぎす)しば/\過ぐるほど、宿かし鳥(2)のたよりさへある(3)を、木啄(きつつき)のつゝくとも厭(いと)はじなんど、そゞろに興じて、魂(たましひ)、呉楚東南(4)に走り、身は瀟湘(5)洞庭(6)に立つ。
 山は未申(ひつじさる)(7)にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫(なんくん)(8)(みね)よりおろし、北風(ほくふう)(うみ)を浸(ひた)して涼し。
 日枝(=比叡(ひえ))の山、比良(ひら)の高根より、辛崎(からさき)の松(9)は霞こめて、城(11)あり、橋(12)あり、釣たるゝ船あり。
 笠取(10)に通ふ木樵(きこり)の声、麓(ふもと)の小田(おだ)に早苗(さなへ)とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたゝく音(13)、美景物として足らずといふことなし。
 中にも三上山は士峰(しほう)の俤(おもかげ)に通ひて(14)、武蔵野の古き住みかも思ひ出()でられ、田上山(たなかみやま)(15)に古人(いにしへびと)をかぞふ。

 《現代語訳》
 矢張り、春の名残りは遠くはなく、ツツジが咲き残り、山藤が松に掛かって、ホトトギスが屡々飛び過ぎていくうちに、カケスの声迄聞こえて来るので、庵を啄木鳥に突(つつ)かれるのも気にしない等と、何となくいい気分で、魂は「呉と楚が東南に坼()け‥」と杜甫の(『登岳陽樓(岳陽樓に登る)』という詩にある洞庭湖に走り、身は(北宋の宋迪が描いた)瀟湘(八景で有名庵)洞庭湖の畔(ほとり)に立っている。
 山は南西の方角に聳え立ち、人家は丁度良い位に隔たっていて、南風が峰から吹きおろし、北風が琵琶湖を浸して涼しい。
 比叡山・比良の高根から、辛崎の松は霞に包まれ、城あり、橋あり、釣り糸を垂れている船がある。
 笠取山に通う木こりの声、麓(ふもと)の田に早苗を摘み取る歌(=「田植え歌」)、蛍が飛び交う夕闇の空にクイナの鳴き声、実に美しい景色として不足(した処)が無い。
 中でも三上山は(近江富士と言われ)富士山の俤があり、武蔵野の古き住みかも思い出され、田上山に古人の墓を訪ね巡る。

《語句》
(1) さすがに:そうはいうものの / 矢張り
(2) 宿かし鳥:カラス科の鳥「カケス」の別名
(3) たよりさへある:鳴き声まで聞こえて来る
(4) 呉・楚東南:杜甫「登岳陽楼」の「呉楚東南に坼()け」による / 洞庭湖と琵琶湖とを重ね合わせている(本作品は、768年 杜甫57歳の作)
   登岳陽樓  岳陽樓に登る 杜甫(712-770)
  昔聞洞庭水  昔聞く洞庭の水
  今上岳陽樓  今上る岳陽楼
  呉楚東南裂  呉楚 東南に裂()
  乾坤日夜浮  乾坤(けんこん) 日夜(にちや)浮ぶ
  親朋無一字  親朋(しんぽう) 一字無く
  老病有孤舟  老病 孤舟有り
  戎馬關山北  戎馬 関山(かんざん)の北
  憑軒涕泗流  軒(けん)に憑()りて涕泗(ていし)流る

【意】昔より(風光明美な所として)その名を聞いていた洞庭湖
 今、私はこうして湖畔の岳陽楼に佇んでいる
 呉楚の地は、湖の東と南に引き裂かれた様に広がっている
 広大な湖面は、天地間の万物(=乾坤)が、日夜夫々の姿を映し出している
 今私には、親しい人々からの便りも全くなく
 年老いた病身には、一艘の子舟があるだけだ
 関山を隔てる北方の地域では、戦乱が続いている
 こうして欄干に寄り掛かっていると、様々な感慨から涙が止め処もなく流れるのである

【語句/解説】岳陽楼:現在の中国湖南省岳陽県の、県城の西にある楼閣/洞庭湖東岸の名勝
 洞庭水:洞庭湖/長江中流域にある中国第2位の広さを持つ湖
 呉楚東南裂:呉(長江東南一帯)と楚(洞庭湖南一帯)の地域が、この洞庭湖に拠り東と南にひき裂さかれて
 乾坤:陰と陽、天と地、日と月等、此処では天地間の万物をいう
 親朋:親戚と友人達
 無一字:一字の便りもない、手紙が全く来ない
 戎馬:軍馬/「戎」は軍事を指す/戦乱状態にあることを表している
 関山:関所のある山々
 軒:楼閣の周りの手摺(勾欄)、欄干
 涕泗:「涙」は眼から出る「なみだ」、「泗」は鼻から出る「鼻みず」

(5) 瀟湘:中国湖南省 / 瀟水と湘水が洞庭湖に注ぐ辺りの地方
(6) 洞庭湖:洞庭湖 / 中国湖南省北東部の湖 / 風光明媚な湖として古来から有名
(7) 未申:南西の方角
(8) 南薫:南風
(9) 辛崎の松:辛崎の一つ松 / 近江八景の一つ /「辛崎の松は花より朧にて」(芭蕉)
(10) 笠取:宇治北東の笠取山 / 琵琶湖と宇治川の中間あたり / 芭蕉は『方丈記』を念頭に表現している
(11) 城:膳所本多藩の居城
(12) 橋:瀬田の唐橋 / 此処も近江八景の一つ
(13) 水鶏のたたく音:「水鶏」はクイナ科の鳩より一回り小さい水鳥 / その鳴き声が戸を叩く音に似ている
(14) 三上山は士峰の俤に通ひて:三上山は通称「近江富士」と言われる
(15) 田上山:大津市南部、瀬田川東岸の田上から大石にかけて繋がる山々の総称

【小生comment
 芭蕉がこの琵琶湖湖畔の風景をかなり気に入っていることが確り伝わって来る文章である。
 近江八景を、その元となる瀟湘八景を重ね合わせて、琵琶湖と洞庭湖の風光明媚さを称賛している。

■さて次の話題は、0611() 名古屋へ行き、名古屋ボストン美術館『ボストン美術館所蔵/パリジェンヌ(Parisienne)展‥時代を映す女性たち‥』を見て来たのでご紹介したい。
 主催者は、本展について《ごあいさつ》で次の様に説明している。
 Parisという魅力ある都市に生きる女性、Parisienne
 Salonの主催者、子育てに励む母親、流行を生み出すFashionista(ファッショニスタ)、画家のMuse(ミューズ)、そして自ら道を切り開き才能を開花させた画家や女優――彼女たちは時代の変化と共に、様々な表情を見せて来た。
 その生き方や装い、「Parisienne」というstyleは、今猶私たちを惹き付けてやまない。
 本展では、ボストン美術館所蔵の作品約120点を通して、18世紀~20世紀のParisを体現する女性たちの姿に迫る。〔後略〕

[01]名古屋ボストン美術館入口の本展案内看板

[02]同美術館内でのsnap shot
                  
[03]本展leaflet()

[04]同上()
                  
[05]フランソワ・ユベール・ドルーエ(1727-75)『トルコ風の衣装を着たマルグリット・カトリーヌ・エノー嬢/後のモンムラ侯爵夫人』1762

[06]ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)『チャールズ・E.・インチズ夫人(ルイーズ・ポメロイ)188712
                  
 その生涯の多くを海外で過ごした画家のサージェントは、米国本土でCharles E. Inches夫人である Louise Pomeroyを描いた

 サージェントは、米国人modelに、Parisienneが持つ官能的で関心のなさそうな「名状しがたいもの(je ne sais quoi)」を与えている

[07]ウィリアム・モリス・ハント(1824-79)『マルグリット』1870

 画題の『マルグリット』とは、フランス語でヒナギクのことで、modelの彼女の手の中にある帽子を飾っている花である

[08]ベルト・モリゾ(1841-1895)『器の中の白い花』1885
                  
 印象派の女性3人というと、ベルト・モリゾ、メアリー・スティーヴンソン・カサット、マリー・ブラックモン

[09]メアリー・スティーヴンソン・カサット(1844-1926)『縞模様のソファで読書するダフィー夫人』1876

 カサットは1879年 印象派の展覧会に始めた参加した

[10]エドガー・ドガ(1834-1917)『美術館にて』1879-90年頃
                  
 本作品のmodelの女性2人は、画家のカサットと彼女の姉だと見做されている
                  
[11]ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)『アルジェリアの娘』1881

[12]エドゥアール・マネ(1832-83)『街の歌い手』1862年頃
                  
[13]ジュール・シェレ(1836-1932)『モンターニュ・リュス』1889-90年頃

【小生comment
 本展展示作品の中では、ルノワール『アルジェリアの娘』も可愛いが、カサット『縞模様のソファで読書するダフィー夫人』(1876)が気品があって一番小生は好きだ。

■さて次の話題は、0611日:愛知県芸術劇場concert hall R. Wagner作曲:楽劇『ワルキューレ』を見て来たことについてご報告する。
 除夜と3日間の舞台祝祭劇「ニーベルングの指輪」から楽劇『ワルキューレ(Die Walkure)』全三幕11場を視聴した。
 2回の休憩時間を含め5時間という超大作を、concert形式で演奏された。
  『ワルキューレ』の中身については、その詳細は又の機会にということで、今回はごく簡単に筋書きだけをお伝えする。
  『ワルキューレ』は、第3幕冒頭の「ワルキューレの騎行」の場面を除くと殆どが2人の対話か3人に拠る会話で過ぎていくので歌劇としては意外と地味だ。
 あらすじはごく簡単にに言うと以下の通りである。

1幕:「フンディングの家に迷い込んだジークムントとジークリンデの対話」
      「フンディングが帰宅した後のフンディング、ジークフリート、ジークリンデ3人の会話」
2幕:「ジークムントとジークリンデの逃避行」
      「ヴォータンを責める妻フリッカ」
      「ヴォータンとブリュンヒルデ」
      「ジークムントとジークリンデの逃避行の帰結=ジークリンデの錯乱」
      「ブリュンヒルデに拠るジークムントへの死の告知」
      「ブリュンヒルデの父ヴォータンへの裏切り」
      「ヴォータンの力でフンディングがジークムントを斃し、そのフンディングをヴォータンがに斃す」
3幕:「ワルキューレの騎行」
      「ブリュンヒルデがジークリンデにジークムントとの子『ジークフリート』を宿していることを告知」
      「ブリュンヒルデがヴォータンに拠って炎の中に閉じ込められ深い眠りつく」

[14]愛知県芸術劇場concert hall入口の本演奏会案内看板の横にて
                  
[15]指揮:三澤洋史(左上)/演出構成:佐藤美晴(右上)./ジークムント:片寄純也(左下)/ジークリンデ:清水華澄(右下)

[16]フンディング:長谷川 顯(左上)/ヴォータン:青山 貴(右上)/ブリュンヒルデ:(左下)/フリッカ:相可佐代子(右下)
                  
 【小生comment
 楽劇『ワルキューレ』は、第3幕冒頭の「ワルキューレの騎行」の場面が一番有名。
 具体的には、ブリュンヒルデを除く8人のワルキューレ達が英雄達の屍を馬に乗せて「ホヨトホー」と叫び声を上げ乍ら集まって来る場面だ。
 本演奏会は、concert形式なので、舞台正面のpipe organの処でワルキューレ達が歌った。

【後記】0611()Wagner作曲楽劇『ワルキューレ』演奏会は、1500分に開演され、2000分少し前に終演となった。
 それから名駅のセントラルタワーズ13階のレストラン街へ向かった。
 なだ万茶寮を会場として、【時習26回 1-4の会】ミニミニクラス会を開催した。
 このミニミニクラス会も中嶋君の肝入りだが、会場の選定は彼から小生に任された。
 其の日小生は、3つのeventをこなした。
 第一に、クラス会の集合前に一人で名古屋ボストン美術館『パリジェンヌ』展を観て、
 第二に、中嶋君の招待で、ワグナー/楽劇『ワルキューレ』を観て、
 第三の仕上げが、【時習26回 1-4の会】ミニミニクラス会だった

  短夜に親しき友とワルキューレ!  悟空

[17]中嶋君と林さんと

[18]なだ万茶寮~先付
                  
[19]同上~お造り

[20]同上~メイン:銀鮭柚庵焼、稚鮎唐揚げ他
                  
  では、また‥〔了〕

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